「どのような時にも、霊に助けられて祈り」

今日の後半では、「どのような時にも」祈ること、すべての信仰者の為に、絶えず目を覚まして根気よく祈るように命じています。更に、手紙の差出人パウロが、適切な言葉で福音の神秘を大胆に示すことが出来るように祈って欲しいと頼んでいます。信仰の戦いは…

戦うための武具

そこで今日の聖書は、やみの支配者と戦う武具を、神様は私達のために用意して下さっていることを教えています。ここには、『真理』『正義』『平和の福音』」『信仰』『救い』『霊すなわち神の言葉』が挙げられています。真理も正義も、人間が理論的に捉える…

罪が支配するこの世

今、私は「罪が支配するこの世界」と申しました。毎日流れてくるニュースには、「何でこのようなことが」と思える事件・事故が次々と起こり、犯罪・戦争・憎しみや恨みから生まれる暴力や殺人などが横行しています。本来助け合うべき家族の中にも亀裂が生じ…

十字架による「罪の赦し」と「神様との和解」

神様と私達を遠く隔てていた「私達人間の罪」を赦し、断絶していた神様と私達人間との交わりを回復する為に、神様は、御子イエス様を私達に遣わして下さいました。イエス様は全人類の罪を背負い、私達が負わねばならない罪の結果としての罰を引き受け、十字…

はじめに

私達は、世界をつくり、私達に命を与え、私達を日々生かして下さっている神様から毎週の礼拝に招かれてここにいます。本来私達はこのような恵みにあずかることの出来ない者たちです。なぜなら私達は自分を見ればわかるように、神様の愛・神様の正義・神様の…

エフェソ書6:10−20

エレミヤ書2:1−13

神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた

この垂れ幕は、神様の臨在を象徴する「契約の箱」が置かれている「至聖所」と祭司達が奉仕する「聖所」の間を仕切るものです。年に1度だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることを許され、動物のいけにえを捧げて、イスラエルの人々の罪の贖いをしていま…

なぜわたしをお見捨てになったのですか

十字架上では、最期にイエス様の大きな叫びがありました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。 主がなぜこの言葉を言われたのか、本当の御心を知り尽くすことはできませんが、二つのことが推測されます。一つは、この御言葉が詩編22…

全地は暗くなり(33節)

イエス様が十字架につけられたのが午前9時(15:25)で、今日の聖書には、その3時間後の正午、真昼間に真っ暗になるという天変地異が起こったことが記されています。これは天の父なる神様の御心が悲しみで暗くなったことを象徴的に表しているように私には思…

はじめに

今年の受難節(レント)は3月5日の水曜日から始まりました。初日の水曜日は特別な日で、「灰の水曜日」”Ash Wednesday”と呼ばれています。聖書で「灰」は、懺悔や深い悲しみ・嘆きを表わします。「灰をかぶる」とは、心からの深い悔い改めの思いを抱いている…

マルコ福音書15:33−38

詩編22:1−24

「これほど大きな救い」

今日のヘブル書の3節に「これほど大きな救い」とあります。具体的には、終末における裁きの時、神様を信じて従った者達に約束されている「永遠の命」をさします。この救いは、イエス様から弟子達に、更に御言葉を聞いた全ての人々に、確かなものとして証しさ…

救いの御計画

ヨナは暑い日差しに苦しめられます。そこで神様はヨナのために、とうごまの木を生えさせ日陰をつくりヨナを日差しから守りました(とうごまの茎の高さは4mにもなり、大きな葉っぱが交互に出て日陰を作る)。ヨナはとうごまの木をとても喜びますが、翌日、神…

ヨナの不満

ヨナは、神様が町の滅亡を思いとどまったことに対しては不服でした。義である神様が、悪に対して裁かれるのは当然であると考えていたからでしょう。それなのに神様は気持を変えられたのです。ヨナは神様に、「わたしにはこうなることが分かっていました。あ…

神様に従ったヨナ

神様は再びニネベ行きを命じ、ヨナは「直ちに」ニネベの町を巡り、命じられた通り語ります。それは「40日後に、ニネベの町は滅びる」でした。町の滅亡を伝える仕事は気が重かったことでしょう。しかも滅ぼされる理由は「彼らの悪」(1:2)の故です。罪を犯…

はじめに

ヨナは、神様からニネベの都に神様の言葉を伝えるように命じられますが命令に背き、ニネベの町とは逆のタルシシュ行きの船に乗ります。ところが途中、海は大荒れとなり船は沈没しそうになり、この災難は誰が引き起こしたのか全員くじをひくことになり、くじ…

ヘブル書2:1−4

ヨナ書1:1−2:1

イエス様の愛

今日の聖書では、救い主イエス様の愛が三つの形で表わされています。一つは、十字架の前を通りがかった人々から「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしられながらも御自分の為にその御力を使うことはなかったことです。二つには、筆舌に尽くしがたい…

主に寄り頼む者の勝利

詩編22編は、ダビデ王が敵に囲まれて絶体絶命の中、神様に助けを求め、その救いを信じ続けて本当に助けていただき、そのことによって、神様を賛美する気持がわき起ることをうたっています。敵に囲まれ悲痛な心情から救いを得て、最後は神様の救いが世界中、…

「ヴィア・ドロロ―サ」(苦難の道)

裁判の場所から処刑場のゴルゴタの丘までの道を「ヴィア・ドロロ―サ」と呼ばれています。巡礼者達が主の苦難を偲んで歩む道です。 ゴルゴタの丘では、イエス様は十字架にかけられる直前、慣例に従い、没薬をまぜた葡萄酒を飲ませられようとします(十字架の…

「アレクサンドロ」と「ルフォス」の父

シモンは「アレクサンドロとルフォスとの父」と記されています(21節)。この二人の名前は、当時の教会の人々(A.D.70年頃)には知られていたのでしょう。シモンも二人の息子も異邦人伝道の初穂として、父なる神様に選ばれたのではないでしょうか。 思えば私…

キレネ人シモン

たまたまそこを通りかかった人が「キレネ人シモン」でした(キレネは今の北アフリカ)。過越祭のためかその他の理由か、エルサレムに来た目的は知る由もありませんが、シモンは人間的な見方からすれば偶然、主の十字架を肩代わりして負う役目を与えられたの…

はじめに

今年の受難節は3月5日から4月19日でイースターは4月20日です。少し早いですが、主の十字架における苦難の御姿を学びたいと思います。 イエス様は、ローマのユダヤ総督ピラトの裁判を受け、判決後に鞭を打たれました。鞭は先の方に骨片や小石などがつけられ、…

マルコ福音書15:21−32

詩編22:17−31

神からの霊を受けた者が、神から恵みとして与えられたものを知る

教会には神様の御業としての永遠の命の栄光が与えられており、その命は「キリストの体」を構成している私達(信仰者)の内面的命としっかり結びついています。この命は神様が愛する者たちに用意された命です。神様が召されるのは「この世の知恵で神様を理解…

信仰者の目

神様の御業を見ることは、普通は隠されています。信仰を与えられた者だけが、ある事柄を見て、それを神様の恵みとして喜び、感謝して受けることが出来ます。信仰者の目は時代を超えて、神様の永遠の救いの御計画を見上げることが出来ます。「この世の知恵」…