21章18−22節

18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。

19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。

21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。

22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

はじめに

 本日は今年最後の日曜日(聖日)です。しかし教会暦から言いますと新年は12月2日の待降節から始まっており、本日は降誕節の最初の日曜日です。(教会暦は、待降節降誕節−受難節−復活節−聖霊降臨節と五つの節に分けられ、待降節は11月30日に最も近い日曜日から4回の日曜日を含む期間をさします。)教会暦は、クリスマスのように毎年12月25日と決まっている祝日と、復活節やその50日後にくるペンテコステ聖霊降臨日)のように毎年変わる祝日があります。イースター(復活日)は、春分の次の満月の次の日曜日と定められた為、毎年移動します。

 私達の日常生活では、明日は大晦日で世の中はきぜわしく動いておりますが、教会では先週クリスマス礼拝をささげたばかりで、1月の6日迄はクリスマスの飾りはそのままにしておくのが習慣になっています。日本の教会ではあまり一般的になっていませんが、クリスマスから12日後の1月6日は東方から博士達が星に導かれてイエス様を礼拝しに来たということで、イエス様が異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に、初めて救い主として現れたことを祝う日(顕現日・公現日)です。

いちじくの木を呪う

 本日の聖書は、朝早い途上でイエス様が空腹を覚えていちじくを見たけれども実をつけていなかったので、イエス様がその木を呪われていちじくは枯れてしまった、という個所です。マルコ福音書には「いちじくの季節ではなかったから」と説明があります。季節でないにもかかわらず、実をつけていないとの理由でイエス様がいちじくを呪われ、いちじくの木は枯れてしまったという話は、私達にとってわかりにくい話です。

いちじくとは・・

 旧約聖書ではイスラエルをいちじくで象徴する例が出てきます(エレミヤ24章・8:13・ホセア9:10)。ミカ書にはイスラエルの民の腐敗に対する嘆きの言葉にいちじくが出てきます。「悲しいかな、私は夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、私の好む初なりのいちじくもない。主のいつくしみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」(7:1)。つまり葉ばかり茂って実のない いちじくの木を引用し、一見敬虔そうであるけれども実質のないイスラエルの民の道徳的腐敗を語っています。

「今から後いつまでも、お前には実がならないように」

 ここで実をつけていないいちじくを呪われたのは、イスラエルの民が、(直前に記されているように)エルサレム神殿を礼拝の場所ではなく商売の場所へと堕落させてしまっていること、更にイエス様をメシア・救い主として受け入れようとしないことへの裁きの言葉として読むことが出来ます。

いちじくが枯れた奇跡

 弟子達がイエス様にいちじくが枯れた理由を尋ねますが、イエス様はそこから「実を結ぶ信仰」について教えられます。人間の常識では不可能と思えることでも神様の力に信頼するならば、それは成るということです。イエス様はてんかんで苦しむ息子を連れてきた父親に、「出来れば、というか。信じる者には何でもできる」と言われました。「求めよ、さらば与えられん。」との言葉はあまりにも有名ですが、しかし私達は、聖書で繰り返し教えられているこの神様への絶対信頼が、多くの目に見える事柄に邪魔され影響を受け、次第にしぼんでいくことがあるのではないでしょうか。以下は、ある神学者の言葉です(蓮見和夫氏が紹介)。

 「最悪の罪は、祈らないということです。私達をしばしば驚かすキリスト者の明らかな言行不一致は、祈りのないことの結果であり、そのとがです。祈りを欲しないことは、祈らないという罪のさらに背後にある罪です。しかしその結果、祈り得なくなるのです。それこそ祈りを欲しない人の受ける罰にほかなりません。それは精神的失語症、あるいは精神的餓死です。あなたは額に汗してパンを得なさい。これは肉体的労働と同じく、精神的労働についても言われた真理です・・」。

 祈りは聞かれます。自己中心的な欲望の為ではなく、神様の栄光を現し、神様の御心にかなう祈りならば必ず聞かれます。私達はもっと大胆に確信をもって祈りましょう。自分自身の為に、家族と隣人の為に!!