111篇1−10節

1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。

2 主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。

3 主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。

4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み

5 主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め

6 御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。

7 御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実

8 世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。

9 主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。

10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

 1章46−56節

46 そこで、マリアは言った。

47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、

49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。

51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、

52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、

53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。

54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、

55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

はじめに

 「マリアの賛歌」と見出しがついている今日の箇所は、「マグニフィカート」(ラテン語で「あがめる」の意)と呼ばれています。ラテン語訳聖書ではマグニフィカートから始まるからです。マグニフィカートは古くから礼拝に用いられ、ローマ・カトリック教会においては、毎日一定の時刻に一定の形式によってささげられる公の祈りの中に取り入れられ、聖公会ルーテル教会でも夕礼拝で歌われるそうです。

マリア

 大工のヨセフと婚約中であったマリアは、社会においてはごく普通の、平凡な、目立たない女性の一人であったと思われます。このマリアに驚くべき出来事が起こりました。「受胎告知」として絵画でも有名な、天使ガブリエルの言葉がマリアに臨んだことです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。天使はマリアの胎内に命が宿ることを告げます。結婚していないマリアは、そんなことはあり得ないと答えますが、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)と語ります。さらに天使は、親族のエリサベトが老年ながら子供を宿していることを伝えて、「神に出来ないことは何一つない」と宣言します。マリアは答えます。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」

マリアとエリサベト

 マリアは一人では抱えきれない自分の体験を、親族エリサべトに聞いてもらおうとしたのでしょう。急いで山里のエリサベトの家に向かいます。マリアがエリサベトに挨拶をした時、エリサベトの胎内の子が踊り、エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにマリアを祝福して言います、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう。

神様の選び

 イエス・キリストの出生は、ヨセフに何の関わりがなかったと同じくマリアにもなかった、と内村鑑三は言いました。その意味は、マリアは他の信仰者と同じように神様のしもべの一人であったにすぎない、ということです。神様のしもべとは、自分の意志を行なうのではなく神様の意志を行わさせられる者であり、神様はマリアを通して御子を世に遣わそうと計画されました。すなわちイエス・キリストの誕生は、マリアの側から起った問題ではなく、一方的に神様のご計画であり神様の選びがマリアの上に起ったということです。そしてそのことを一番よく理解していたのがマリア自身でありました。

マリアの賛歌=礼拝の原点

 「あがめる」には「大きくする」という意味があります。マリアは神様を大いなる方とし、自分を身分の低い主のはしためと言い「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」と告白します。マリアの神様への賛美は、自分の魂も霊も(魂・霊は最も大切な自分の中心部分・核となる部分、その全てをもって全身全霊で)神様をあがめ、神様を喜び称えると歌います。なぜなら神様はこんな自分に目を留めて下さった!顧みて下さった!それは大事件なのです。ここに礼拝の原点をみます。このとるに足りない私を神様は多くの人々の中から見つけて下さり、今こうして礼拝者として私をこの場に招いて下さっている。これは何と大きな祝福でしょう。礼拝とは、全身全霊で神様をあがめ、神様を喜び称えることです。

「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・」

 マリアの賛歌は、終末における神による「人間の運命の逆転」も歌います。神が全能をもってこの世の一切の力を排除し、これ迄の価値は完全に消滅するとの信仰が旧約以来継承されています。昔も今も私達の住む世界は矛盾だらけです。しかし神が王として支配される時がきます。その時に逆転がおこるのです。(後略)。