11編1−7節

1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。

2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。

3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。

4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。

5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み

6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。

7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。

25章6−12節

6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。

7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。

8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。

9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」

10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。

11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」

12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。

はじめに

 ローマがユダヤ地方の総督として派遣していたフェリクスのもとで、パウロの裁判は開かれました。しかし告訴したユダヤ人の側では、パウロを有罪にする証拠も証明も出来ませんでした。この裁判の前に総督フェリクスは、千人隊長リシアから「パウロユダヤ人との間にある問題を調べた結果、それはユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はなかった」との報告を受けていました。さらに彼自身、キリスト教のことをかなり詳しく知っていました(24:22)。


 フェリクスの、総督という地位や権力から考え、この状況であれば今、目の前にいるパウロを無罪放免することは可能でした。が、彼はそうしませんでした。彼は、エルサレムにいる千人隊長がカイサリアにやって来た時に判決を下すと言って、裁判の判決を延期したのです。

総督フェリクス

 フェリクスは妻がユダヤ人であるということもあり(24節)、パウロを、キリスト者の指導者の一人であることを認めて、パウロの監禁中たびたびパウロを呼び出しては、イエス・キリストへの信仰についてパウロから聞きました。彼がパウロに対して抱いていた思いは、丁度ヘロデ王バプテスマのヨハネに対して抱いていたように、良心の呵責を持ちつつ、正しい言葉が聞けることへのパウロへの好意的な関心がありました(参照:マルコ6:20)。パウロはためらうことなく、正義について、節制について、又、来るべき神様の裁きについて話したので、彼はそのような時は恐れて話を打ち切りました。フェリクスはパウロの無実を知りながら、彼を軟禁状態のまま二年間も裁判を開きませんでした。それは、ユダヤ教指導者達から憎まれたくないこと、そして釈放金としてわいろを受けようとする下心があったからだと聖書は伝えています。

総督フェストゥス

 二年後フェリクスは転勤となり、フェストゥスが赴任してきました。彼は保留となっていたパウロの裁判を、着任後まもなく開きました。ユダヤ人達は、前回と同じように重い罪状を言いたてましたが立証には至りませんでした。ところがフェストゥスはパウロに、「お前は、エルサレムに上って、そこで裁判を受けたいか」と尋ねたのです。(9節)

自己保身

 フェストゥスは、自分がパウロを釈放すれば、ユダヤ人指導者層を赴任したばかりで敵に回すことを覚悟しなければならないことを察知し、「自分はあなた達の敵ではない」とユダヤ人にアピ−ルする為、彼らの願い通り、エルサレムでの裁判の道を開こうとしたのでしょう。


 二人の総督に共通しているのは、「白を白、黒を黒」と言わない生き方を選んでいるということです。パウロの無実を知りながら、ユダヤの統治がやりにくくなることを恐れ、ユダヤの指導者層を自分の側にとどめておくための方策を優先させたのです。それは無難に任務を果たす為、自分の生活の安定の為、言いかえれば自己保身のためでした。

二つの生き方

 パウロにとって、復活の希望がある以上「死」は恐怖ではなく、逆に、この地上から去ってキリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましいとまで言っています(フィリピ書1:23)。しかしユダヤ人の訴えが事実でない以上、無実は立証されなければなりません。真実は歪められてはならないのです。この法廷でパウロは、「もし悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません」(11節)と述べ、結論として「我はカイザル(皇帝)に上訴せん」(文語訳)と答えました。パウロは、この上告によって、囚人としてローマの法廷に立つことを宣言したのです。


 ここに二つの生き方が示されます。一つは、(二人の総督のように)自分の利益を優先させる生き方、他方は、(パウロのように)神を信じ、神を畏れる者の生き方です。そこには嘘、偽りはありません。正しいことと間違っていることを明確に区別し、自己保身の道ではなく神様の言葉に従う道です。私達もパウロに倣って、従う者の道を歩んでいきましょう。