20章11−23節
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
人間の罪
聖書が私達に語る第一のことは、神様がおられるということです。神様はこの世界(空・陸・海)を造られ、鳥や動物や魚を創造され、最後に人間を、神様に似せて創られました。神様に似せて創られた人間は、神様に従順に従って生きている限り平和が約束されていました。ところが最初の人、アダムとエバは、神様の言葉に逆らって自分の欲望を満足させました。これが「罪」の始まりです。
神様は、人間が神様に従い、幸せに生きていけるようにモーセを通して「律法」を与えられました。律法は、神様を愛し隣人を愛することを命じています。「神様を愛する」とは、神様を神様とする。神様でない偶像を拝まない。神様の名前を自分の為に勝手に使わない。神様を礼拝する聖日(日曜日)を大切に守る。そして神様が与えて下さった両親を敬うことです(両親は子供を正しく教え導く責任を持つ)。「隣人を愛する」とは、隣人の命を守る。隣人の家庭を守る。隣人の自由を守る。隣人の名誉を守る。隣人の財産を守ることです。ところが人間は、「律法」を守ることが出来ませんでした。人間は、神様の言葉よりも自分の感情や欲望を優先する生き方(罪の世界)へと堕落していきました。その結果、神様と人間の間には深い断絶ができ、人間は、神様の怒りの前に滅びるしかありませんでした。
イエス・キリストの復活
それは、十字架の死から三日目の朝、まだ暗い内のことでした。マリアはお墓に行き、イエス様の遺体がなくなっていたのを目撃してペトロともう一人の弟子に知らせました(2節)。二人の弟子はすぐ走ってお墓がからであることを確認して家に帰っていきました。ところがマリアはこの後もお墓の外で立ったまま泣き、泣きながら身をかがめてお墓の中を覗きました。中には二人の天使がいてマリアに声をかけますが、マリアは遺体がなくなったことだけを嘆いています。その時復活されたイエス様がお墓の外から(マリアの後ろから)「なぜ、泣いているのか。誰を探しているのか」と声をかけられました。マリアは、その声が誰かを知ろうともせず、遺体が戻ることだけを願っていました。イエス様が、「マリア」と呼ばれた時、初めてマリアはイエス様に気付きました。