はじめに

本日は、しゅろの主日、英語ではパームサンデーと呼ばれる日曜日です。

しゅろは「なつめやし」のことで、イエス様が、最後にエルサレムの町にロバの子に乗って入られた時、群衆はこの木の葉を振って歓迎したことがヨハネ福音書に記されています(12章)。この木は、勝利を表わすそうです。黙示録7章には、白い衣を着た大群衆が手になつめやしの枝を持ち、小羊の前に立っている描写があります。白い衣を着た群衆とは、十字架の血で清められた信仰者のことで、小羊とはイエス様のことです。

 歓喜をもってイエス様を出迎えた群衆は、同じ週の金曜日に「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に変わりました。アメリカにいた時、パームサンデ−に教会から、しゅろの枝が配られました。教会によっては、そのしゅろの枝は一年後燃やされ、その灰を受難節(約40日)の初日、「灰の水曜日」に、頭上にかぶり「ざんげのしるし」としているそうです。

祭司の祈り

ヨハネ福音書の14章から16章にはイエス様が弟子達に語った「告別の説教」が記されていますが、今日の聖書は続いて祈られたイエス様の「祈り」です。この祈りは宗教改革時代以来「大祭司の祈り」と呼ばれます。それは、イエス様が「大祭司」のように、残される弟子達の為、さらにはイエス様を信じる全ての者の為にささげられた祈りだからです。

 イエス様は、弟子達を父なる神様に委ね、弟子達に完全な喜びを残していこうとされました。その喜びとは、弟子達がイエス様と結ばれていることを知り、イエス様は弟子達を父なる神様の所に連れて行って下さることを知ることにより与えられる喜びです。又、イエス様は、弟子達がこの世から憎しみを受けていることに対しても祈られました。弟子達はイエス様の言葉によって、この世から選び出された人達です。「この世」は自分の所属であった筈の弟子達を、神の国に属する者として奪い去られたゆえに、再び取り戻そうと働きかけます。イエス様は、弟子達が受ける苦痛、戦い、苦悩から解放されることではなく、悪いことから(サタンから)守られることを祈られました。

「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。」

神様に属する者は清くされたものです。それは信じる者が神様を仰ぐ時、神様の前にひざまずき、謙遜にさせられ、神様の神聖さにあずかるからです。彼らの清さを形づくるものは真理です(「あなたの御言葉は真理です」17節)。真理の霊が弟子達に与えられ、その全存在・全生活の中で神様と結ばれるように祈られます。父なる神様が、弟子達を、聖なる者として分離して下さるなら、たとえこの世にいても、悪に対する防護壁が立ち、彼らは守られます。

信じる者すべての人の為に祈る

エス様は、弟子達が結ぶであろう実として与えられる「信じる人々」の為にも祈られました。信じる群が大きくなればなるほど、彼らが聖なる真実の愛によって結びあわされるように祈られます。分裂を克服するものはただ一つ、全ての者が唯一の神様に従うことです。教会の一致は、イエス様と父なる神様との一体の上に建てられ、そこに、教会は自分達の一致の根拠と原則を置きます。イエス様の最後の祈りは、信じる全ての人々が、神様の永遠の愛から御子イエス様に流れ出る「ご自身の栄光」を見ることが出来るように、イエス様と共にいるようにして下さいとの願いでした。イエス様に与えられた神様の永遠の愛は、信じる者全ての人が見ることが出来、さらに、この愛の中を生きることが出来るのです。