19世紀に生きたイギリスの牧師にスポルジョンという人がいます。彼の残した説教の中に「妥協はしない」と題したものがあります。アブラハムがしもべに、息子のための嫁さがしを命じている聖書の個所を取り上げたものです。アブラハムが僕に命じたことは、一人息子イサクの妻は、現在アブラハムが住んでいるカナンの娘から探すのではなく、アブラハムの一族が住んでいるアブラハムの故郷、メソポタミアのハランの町に行って探すように、というものでした。(カナンとハランがどれくらい離れているかを、聖書に添付されている地図1頁で確認してください。)しもべはアブラハムに尋ねます。もしも自分が見つけた女性が、ハランからカナンに移り住むことを嫌がる時には、その時には、息子の方を、アブラハムの故郷ハランに移り住んでもらっても構わないでしょうか、という質問です。アブラハムの答えは明快でした。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」(創世記24:6−8)


 説教題の「妥協はしない」というのは、おそらくここからつけたものでしょう。スポルジョンは説教で語ります。しもべが出発前に主人の意見を聞く。私達も仕事をする前に、まず神様に向かって語り、聞く。その仕事の困難さを考えているならそれを打ち明け、神様が何を期待し、又助けて下さるかを聞きましょう!と。私達は、最初に地上における目に見える人や事柄に対して向き合おうとするけれども、そうではなくて、まず神様に向かって祈ってから、それから人や事柄に向かうということです。しもべは、自分に命じられたことの中で心配していることを尋ねます。その結果、主人アブラハムからは明快な答えを聞くことが出来ました。


 このしもべに与えられた仕事は、主人の後継ぎの結婚という、とても責任の重い仕事であり、むつかしい仕事でもありました。彼は知らない土地を長旅しなければなりませんでしたし、主人の息子にふさわしい女性をみつけねばなりませんでした。その女性は、息子イサクの喜びとなり、イサクの愛すべき伴侶となるのです。そしてアブラハムが神様に与えられた約束を受け継ぐ者となるのです。しもべは、自分に与えられた使命を果たすために努力を惜しんではなりませんでした。自分の能力の限りを尽くして、主人から与えられた使命を果たさなくてはなりませんでした。神様の導きと守りがなければ、出来ることではありません。彼が、たとえ「この人だ」と確信する女性を見つけ出したとしても、はたして彼女は生まれ故郷を離れて遠い国にいくことを承知するだろうか。自分が伝えるイサクという人物と、聞いただけで結婚を承知するだろうか、との心配もあります。さらには彼女がメソポタミアを去ってカナンに来るということは、それまでの生活からの断ち切りが求められますし、農耕の定住生活から、天幕の移住する生活へ切り替わることを意味します。スポルジョンはこの説教で、私達をしもべにたとえて、キリスト者として生きるということが、どういうことなのかを考えさせます。


 さて今年度の聖句として私達に与えられた御言葉は、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」との御言葉です。この御言葉のあとに、こうあります。「これ、キリストイエスによりて、神の汝らに求め給う所なり。」私達の訳では「これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」