常に喜べ

 常に喜ぶとは、どういうことでしょうか。聖書においては、たとえばフィリピ書では「主において」という言葉と一緒に用いられていますし、テサロニケの手紙1章にはこのようにあります「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」。すなわち聖書が教える喜びは、嬉しいことがあったから喜ぶ、悲しいことがあったから喜べないというような、目に見える事柄によって左右される喜びではありません。順境の中にあっても逆境の中にあっても、変わることなく喜びにとどまる、永続性を伴う喜びです。一時的突発的衝動的な歓びとは区別され、イエス・キリストを根拠とする、イエス・キリストを信じる者の喜びであり、湧き上がってくる喜びです。しかし「喜べ」と命令形になっているのは、本人の自覚が必要であるということであり、努力が求められるからです。信仰からくる喜びは、神様が私と共にあって働いて下さるとの喜びであり、たとえ逆境の中にあっても、そのことが神様のゆるしたもうことであり、神様のご計画の中に置かれていることだと受け止められるならば、この喜びを奪うものはいないのです。


 さきほどのアブラハムの話でいうならば、しもべの与えられた使命は重く、困難の伴う仕事でありました。しかし彼は、その仕事をおそれながらも喜んで担いました。私達はイエス様を信じる信仰が与えられているゆえに、それを家族、友人に伝えていく使命があります。その使命は重く、自分のような不完全な弱い者には、それを果たしていくことは不可能だとしりごみします。自分は口下手である。自分は消極的である。自分は何々だから、それは無理だ・・と。もっと別な、もっと口の上手な人がやればよいと考えます。しかし、あの偉大な指導者モーセも口下手でした。彼は神様にこのように断わっています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたがしもべにお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全く私は口が重く,舌の重い者なのです。」神様は、このモーセの言葉を受け入れられたでしょうか。受け入れられませんでした。神様はこのように答えられています「一体、誰が口を聞けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また、見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と。(出エジプト記4章10−)