祝福への執念

 ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。

「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26−27節)

 ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。 

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 ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。