イエス・キリストを指し示したヨハネ

 さて聖書に戻りますが、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを勧めたのは、彼の後に来られる方の為でした。彼の後に来たのは、まぎれもなく福音そのものの御方、イエス・キリストです。しかしこの時、まだイエス様は現れてはいませんでした。ヨハネはまだ見ぬ救い主の為に「私は、その方の履物のひもをとく値打もない」と言いました。履物のひもを解く行為は当時奴隷の仕事だったようですけれども、ヨハネは自分を、その方の奴隷の値打ちもないほどだと自らを低くしています。ヨハネ自身も多くの弟子を作り、ヨハネ教団といわれるものを形成していたにもかかわらず、自分をそのように言いました。洗礼者ヨハネはあくまで後から来られるイエス・キリストを指し示す者でしかありませんでした。けれどもヨハネのことを、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:12)と言われました。
 なぜでしょうか。それは彼の役割が罪を告白するまでのものでしかなかったからです。もし罪を指摘されるだけで終ったならば、その人はどうやって立ち上がれるでしょう。水のバプテスマは悔い改めの洗礼ですが、イエス様の洗礼は救いをもたらす洗礼だったのです。ヨハネは言います。「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」イエス・キリストは神の子ですから、彼には神の霊が豊かに注がれているのです。マタイとルカでは「聖霊と火でバプテスマをお授けになる方」と書かれています。これは裁きをも表しているのではないでしょうか。一体誰が、聖霊と火によるバプテスマに耐えられるでしょうか。それは心から神の前に自分を低くして悔い改めた魂ではないでしょうか。聖霊と火には大きな力があります。火は不必要なもの・役に立たないものを焼きつくす力があります。聖霊は人々の心の奥にひそむ汚れた思いさえ見抜いてしまいます。見かけはきれいに飾っていても、聖霊は魂の中に入って真実を明らかにするのです。だから主イエス様は「隠されているもので知られずに済むものはない。」(マタイ10:26)と言われたのです。