集団から個人へ

 旧約時代と新約時代はイエス・キリストを境にして変わりました。神の目は、集団から個人に向けられました。エレミヤ書では「背信の罪」はイスラエル全体のことでした。しかし洗礼者ヨハネのもとに来た人は、各々、自分の罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けたのです。今、神は一人一人に呼びかけておられます。あなたは今、神の前に赦していただかなければならないことはありませんか。神にさからって生きていませんか。私達は誰一人として罪を逃れる人はいないのです。聖書の民・神の民・選びの民であった「イスラエル」でさえ、悔い改めることなしに福音を受け入れることは出来ませんでした。パウロは、ユダヤ人もギリシャ人もことごとく罪のもとにある(ロマ書3:9)と指摘しました。神の民も、そうでない異邦人も、全て同じ罪のもとにあるということなのです。今まで律法を守れば救われると思っていたユダヤ人でさえ本質的に罪が支配している事をパウロは大胆にも指摘しました。