説教者が出来ること

 「主が死の力に打ち勝ってよみがえられた。」「主は勝利をされた。」「十字架に架けられた主が三日目によみがえった。」そのことについて聖書はいろいろな証人の話を伝えています。説教者が出来ることは、その証人達の姿や体験を言葉でもって指し示すことしかないのではないか。説教の言葉の中に「主は復活された」ということはなく、指し示すことしかできません。こうした人間の営みを超えた出来事が起こったことに対して、語る言葉には限界があります。そうすると問題は、説教者がいかにリアリティをもって主の復活を語ることが出来るか、ではなくて、聞いている聴衆一人一人が復活の主に出会って(自分自身が出会って)「主は本当に復活されたのだ」「私の罪のために死なれたのだ」「私の為によみがえられたのだ」「主は今も生きて働きたもう」・・。このことをどれだけリアリティをもってとらえることができるか。このことにかかっているのではないかと思います。説教で出来ることは、その証人として指し示す役割ではないかと思います。