はじめは主であるとわからない

 主の顕現の物語では、顕現に接した人々は初めそれが主であることが分らない。しかしそれが何らかのきっかけで、何らかのことが手掛かりにそれが主であるとわかり一転して喜びに満たされる。こういう姿を繰り返し伝えています。たとえば20章の後半には復活の主が戸を閉じて立てこもっている弟子達の所に姿を現した出来事が記されていすが、そこでは主はまず、「あなたがたに平和があるように」と挨拶の言葉を語り、その後に手とわき腹の傷跡を見せて、弟子達が初めて主だとわかる。そして彼らは喜びに満たされ、今度は復活の証人として派遣されていきます。又、ルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子への顕現では、主と一緒に話をしながら歩いている時はそれが主であるとわからず、しかし家の中に入り食事の席で、主がパンをとって感謝の祈りをして割いて分ける姿を見た時に、それが主であることがわかった。ほかにも数多く記されていますが、復活の主の姿に接した人達は、それぞれ違った形で主に出会い、主が生きておられるということを信じるにいたった。喜びに満たされて、そこから復活の証人として出ていくということを告げています。