聖書から神意を聴く

 ユダヤ人がステファノに対して問題にしたのは、ステファノが語る「律法」や「神殿」が自分達の考える(旧約)聖書の教えに反しているのか、いないのか、ということでした。しかしステファノがこの弁明の機会になそうとしたことは、ユダヤ人の考えている「律法や神殿」はどのようにして神から与えられ、それは何であるのかを、ユダヤ人の理解ではなくて「聖書」そのものから明らかにすることでした。


ステファノもユダヤ人達も、同じアブラハムを民族の始祖として同じ民の歴史の中で生きてきました。それにもかかわらず、このように対立しているのは、ユダヤ人達が聖書に記されているその本質をわかろうとしないことに原因がありました。聖書をどんなに研究しても、又、言葉にくわしく通じていても、聖書から道徳の体系や、法体系を作り出し、その体系に合わせてモーセや神殿を解釈しようとした為、神様の語る真の意味を理解することが出来なくなっていたのです。聖書を自分達に理解出来る範囲の中で、本来の意図をゆがめてしまったといえるでしょう。それを明らかにして下さったのがイエス・キリストです。イエス・キリストから教えられた弟子達は、聖書を正しく解き明かしました。
私達は幸いなことに、イエス・キリストの光のもとで聖書を読むことができます。ステファノが命をかけて伝えようとした真の福音を聴きましょう。