キリストを目標として

 キリストが目標で、キリストの教えが良心の目的・完成した姿であるならば、私達はそれに従って行けば良いということになります。それによって私達はさらに具体的に神を知ることになります。しかしキリストの教えを実行することで神を知ったという人はいないでしょうし、そういう知り方は自分自身を神とすることになります。「私」がした事柄、「私」が良心に従った行ない・・それで良いということになれば、神は必要でなくなる。そうではなく聖書によって、イエス・キリストの教えを通してキリストが行なったことに照らし合わせて、「これではだめだ」ということに気付き、良心のうずきが起こるのです。

 エレミヤ書は、新しい契約をもたらすその方・イエス・キリストは、「彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(31:34)というのです。キリストご自身が律法の完成者であり、契約のしるしです。そして、イエス・キリストを十字架につけたローマの役人やファリサイ派の人々をはじめ、すべての人に対して、キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエス・キリストの贖罪(罪のあがない)、キリストの教えられた隣人愛は、そういう形でキリスト者に教えられました。キリストが教えられた道、キリストが歩んだ道に従う・・そういう形の生き方をキリストは私達に教えて下さった。古い律法の教えに満足するのでなく新しい形でキリストに従って行く道を教えて下さったのです。