宗教の語るべきこと

さて、震災の中で宗教が語るべきことは何でしょうか。おそらく裁きを語って悔い改めを迫るのではなくて、むしろ慰めや希望ではないかと思います。震災の為に命を亡くした家族がいますが、その人達の死を弔うことであり、天における平安を祈ることでなければならないと思います。特に生き残った人達は、愛する者を突然に失った悲しみの中にあって、自分達だけが生き残った、身内を助けることは出来なかった、そのことへの強い罪責感をもっております。その中で残された人々に、残された命の大切さを語る、慰めや励ましを語る、そのことこそ宗教は語らなければいけないのではないでしょうか。 天譴論に賛同した内村鑑三も、裁きを語って悔い改めを迫る側面と共に、苦難の中にある人々に慰めと希望をも語っています。「今は悲惨を語るべき時ではありません。希望を語るべき時であります。夜はすでに過ぎて光が臨んだのであります。皆さん、光に向かってお進みください。・・今から後は、イザヤ書40章以下の預言者として彼らを慰め、彼らを鼓舞し、彼らの傷を癒さなければならない。」又、同じように震災天罰論を説いた植村正久牧師も、震災の中でさまざまな救援活動に携わることを、「神の愛のわざに参加する」こととして、目前の課題に取り組むよう積極的に勧めました。

 今回の震災は、たまたま同じ時に、同じ場所にいたという偶然的な理由によって、そこにいたすべての人に等しく及び、同じ被災者になりました。そして今回、私達は生き延びることが許されたことへの御恵み、命の大切さを感じると同時に、私達の安否を問うてきた家族や親せきや友人達のつながりの強さを実感させられました。同時に普段は挨拶を交わす程度の近所の人達との情報の交換や助け合いを経験致しました。又、教会によっては、教会が避難所になったり、物資の供給場所として救援物資の配布やボランティアの派遣を行ない、がれきの撤去など、教会が地域の人と共に生きるという体験をしました。日本基督教団東北教区センター「エマオ」も、震災後早くから今も救援活動を行っています。