信仰の立場から

 信仰の立場からすると、震災は、神が人間に与えた試練の一つであるといえると思います。試練は神が私達に与える苦難でありますが、試練によって信仰を放棄する危険が一方ではあります。しかし試練を通して信仰が練り清められる、深まるということもあります。先程読んでいただいた、コリントの手紙一 10:13は、著者パウロが、自分自身や初代教会の人々が遭遇したさまざまの苦難、その苦難を信仰の試練として受けとめ、さらに希望を語っている箇所です。信仰を持ったら苦しいことはなくなるか?そうではないと思います。信仰を持とうが持つまいが、苦難は向こうからやってくる。パウロをはじめ初代教会の人々は、むしろ信仰を持つゆえに、多神教的な信仰に生きる周辺社会とさまざまな軋轢(あつれき)を経験し、さまざまな苦難に耐えなければなりませんでした。

 たとえばフィリピ書1:29では、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と言っています。又、テサロニケ一 3:3では、「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。」と言っています。パウロはそのことを教えていたわけです。これを書いたパウロは自分自身のことを、第二コリント書11章にくわしく書いています。彼は、巡回伝道者として地中海世界を巡り歩く中で、ありとあらゆる困難や苦難を体験した人でした。しかしそのたびに、神によって解決の道を与えられ、伝道者の道を歩き通した人であります。