「愛」によって、「信仰」も「希望」も確かにされる

パウロは2節で、そのことについてすでに答えを出しています。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無にひとしい」。
山を動かすほどの完全な信仰を持っていたら、もう十分かと思うと、そうではなく、愛がなければ無に等しいといっているわけです。逆に言うならば、愛によって信仰は確かにされる。愛は、信仰をさらに確かなものにする。では、希望はどうか。コリントの手紙には希望については解説がありませんが、ローマのキリスト者達に宛てた手紙に、「希望は、わたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5:5)とあります。私達の希望は、私達を裏切らない。なぜかというと、神の愛が私達の内に与えられているからだ。神の愛によって、愛があるから、希望は希望として私達の内に確かになる。希望も、愛によって確かにされる。信仰も希望も、愛によって信仰者の内に確かなものとされる。愛というのは、そのような意味で偉大なのだ、ということを、パウロは、イエス・キリストから教えられた愛を記して、その考えを継承している、と読み取ることが出来ると思います。
そのことを私達は聖書を通してわかる。しかし最後に考えたい三つ目のことは、私達はそのことをどのようにして実践することが出来るのか。私達は、本当に愛に根ざした信仰なり希望なり、その愛自体を実践することが出来るのかということです。そこで、これまで旧約聖書イエス・キリストの言葉やパウロの言葉を概観してきましたので、もう少し時代を経て、近代の教育学者のペスタロッチという人の言葉を引用しながら考えたいと思います。