「見ないのに信じる」

 「見たから信じる」場合、「主を見る」という奇跡を望むようになります。そして、自分の希望する時に希望する形の奇跡を望み、「自分を主体」にし、神様を思い通りに動かそうという誘惑に襲われます。しかし奇跡は神様の愛の表れとして「神様が主体」として働かれるものです。


他方、「見ないのに信じる」場合、奇跡は条件ではありません。御言葉を聞き、御言葉を自分のこととして受けとめ、御言葉を日々の生活の中心に据えて、御言葉に従うことを繰り返すことによって成長し、神様から信仰に命を与えていただくのです。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(一ペトロ1:8−9)


幸いにも私達は、神様の一方的な愛によって、イエス様の福音を聞き、信じる恵みを得ています。限りある自分の感覚や判断が第一ではなく、謙虚に御言葉を聞き、信じ、従う者に変えられることを望みます。「見ないのに信じる人」として主の祝福の内に今週も歩んでまいりましょう。