2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

福音が宣べ伝えられる所で

「福音が宣べ伝えられる所で香油の出来事が語られる」という「福音」とは、キリストご自身のことであり、キリストによって「私達人間の罪の赦し」と「死からの解放」と「永遠の生命」が与えられるということです。その福音が語られる所で、この香油の出来事…

記念として語り伝えられる

ところで、今一つのことを申し述べねばなりません。それは、ヨハネ福音書が記していないことですが(マタイ・マルコ両福音書が記している)、主イエスは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として…

二つのこと

そして二つのことを仰せになりました。一つは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(8節)です。「これからわたしは十字架の死を遂げる」ということが背後にあって、主イエスはこう語っておられるので…

マリアの感謝の喜び・信頼の喜び

マリアが、キリストのいわれる言葉をどこまで理解していたか分かりません。少なくてもキリストが苦難を受けられるのではないかということは予感していたでしょう。 私はむしろ、マリアの香油は、彼女達の兄弟ラザロがキリストによってよみがえらせられた(復…

香油に対するキリストの態度

さてキリストは、この出来事の中にあって、どのような態度、言葉を言われたのでしょうか。キリストは、ユダの発言には目もくれていません。そしてマリアの行為を承認し、マリアは、「わたし(キリスト)の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7…

信仰と行為

ユダに対する聖書の添え書きは、ユダの言葉は純粋なものではない、人間の好意が必ずしも純粋なものではないことを感じさせるわけです。しかしユダの本音はどうであれ、ここには「信仰と行為」あるいは「主イエスの福音と良き行為」との関係について重要なこ…

二つの添え書き

一つは、ユダは貧しい人々のことを心にかけていたわけではないこと。もう一つは、彼は盗人で、主イエスと弟子達の財布を預かっていながら、中身をごまかし自分勝手に使っていたので、それをごまかすために、尤もらしいことを言っているというものです。この…

ユダの非難

その時、後になって主イエスを裏切ることになるユダが、「その香油を300デナリオン(高く見積もって300万円・低く見積もっても150万円)で売り、貧しい人達に施しをする方が良かった」と非難したのです。マタイ福音書やマルコ福音書の並行記事では、ユダだけ…

はじめに

ヨハネによる福音書は、11章から12章11節まで、ラザロとその姉妹マルタとマリアのことをくわしく語っています。彼らが住んでいたのは、エルサレムの南東約3キロ離れたベタニアという村でした。主イエスはエルサレムに入城する前にも、その後でも、ラザロの家…

ヨハネ福音書12:1−8

詩編145:1−16

「わたしだ。恐れることはない。」(20節)

自然の猛威に対する恐れと、何ものかが近づいてきたという恐れを吹き飛ばしたのは、イエス様の、「わたしだ。恐れることはない。」との一言でした。この一言が、それまでの弟子達の労苦・困難・思い煩いを吹き飛ばし、肩に力が入り緊張していたその状況を打…

「彼らは恐れた」

一方、弟子達は向こう岸を目指してこぎ出しましたが、強い風が吹いて湖が荒れだしました。25−30スタディオンの距離(約5・6キロ)を行ったところ、舟が前に進まなくなり弟子達は苦労していました。舟に水でも入ってきたら舟が沈むのではないかと不安になりま…

人間の大きな誤り

イエス様は、人間を罪の支配から救い出す為に神様が送って下さった方です。いいかえれば「神様からの大きな私達人間への贈り物」であり賜物です。私達はイエス様を、私達の救い主として信じ、感謝を持ってイエス様を受け入れ、このお方に従うのです。ところ…

山に退かれた

イエス様が山に登られたのは、奇跡を見た人々が、御自分を王にしようと捜していたので、そこから避けるためでもありました。(6:15)。群衆がイエス様を王にしようと考えたのは、イエス様の奇跡の業の中にかつてのモーセの姿を思い起こしたからでしょう。群…

はじめに

今日の聖書箇所の前には、イエス様の話を聞きにきた大勢の群衆の為に、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人々の空腹を満たされたという奇跡の出来事が記されています。その後イエス様は、弟子達だけを先にガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウム…

ヨハネ福音書6:16−21

詩編54:3−9

偽りの信仰者とならないために

私達は、御言葉を正しく知り、聖霊をいただけるように祈り求めることが赦されています。聖霊によって私達は、信仰に応じて神理解が与えられます。信仰に応じて神様への理解が深まっていくのであれば、日々、祈りを深め、神様に願い続けたいと思います。そし…

御心を最優先に

イエス様は、神様の御心は、無償の愛から来る「人間の救い」であることを明らかにされました。(参照:ヨハネ4:34)。この世の価値観で、自分を大きく見せようとしていた律法学者達は、サタンの誘惑から逃れられず、神様の御心について考えることを忘れさせ…

神の掟の根本にある「御心」

律法学者が求めたのは、「律法の一つ一つをしっかり守るために、深く解釈した上で、細かく規定する」ことでした。それは「律法」が、イスラエルの民に与えられた大切な掟だからです。 しかし、神の掟である律法を、人間の限界ある知性で細かく分析したことか…

罪の性質

最初の三つは、自分の、社会的立場が上であることを見せびらかしたがる具体例と言えるでしょう。彼らは神様を忘れて思い上がり、その地位にあぐらをかいています。究極の姿が「やもめの家を食い物にする」です。又、「見せかけの祈り」とは、イエス様は人間…

はじめに

イエス様は「律法学者に気をつけなさい」(38節)と言われました。 「気をつけなさい」は、「じっと見つめてわかる」という言葉が使われています。イエス様が、律法学者をじっと見つめて観察された結果、次の五つのことを挙げられました。「長い衣(学者であ…

マルコ福音書12:38−40

イザヤ書10:1−4

信仰の変化

イエス様は、私達の目がイエス様にしっかりと向けられ、私達の心がイエス様に服従し、イエス様から離れない完全な信頼をもってイエス様にお委ねするという信頼が起こされるように奇跡の業を用いられます。 王の役人が最初にイエス様のところに来た時の信仰は…

あなたの息子は生きる

王の役人は、愛する息子を失うかもしれないという窮地の中で「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。」と訴え続けました。イエス様は彼を憐れみ、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と約束されました。この父親にとって、イエス様が自分と一緒に来て…

まちがった信仰

彼はイエス様に、カファルナウムの家に来て息子を癒してほしいと頼みました。ところがイエス様は「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない。」(48節)と、厳しい言葉を返されました。 イエス様がこの世に来られたのは神様の御計画による…

はじめに

ユダヤからサマリヤを通り、目的地のガリラヤに到着したイエス様一行は、ガリラヤの人達に歓迎されました。というのは、イエス様がエルサレム滞在中になさった「奇跡」を見た人達がそこにいて、イエス様の評判が、エルサレムから遠く離れたガリラヤにまで伝…

ヨハネ福音書4:46−54