二つのこと

そして二つのことを仰せになりました。一つは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(8節)です。「これからわたしは十字架の死を遂げる」ということが背後にあって、主イエスはこう語っておられるのでしょう。
「十字架の死」は何を意味していたのでしょうか。それは、ユダのような偽善者のみならず、不十分な良き言葉・良き行為しか出来ない私達の罪を赦し、救いの御業を成し遂げ、十字架の死と復活を遂行するということがキリストの思いでありました。そこで「私はいつも一緒にいるわけではない」と、おっしゃっているわけです。
  

さらに付け加えるならば、このキリストの十字架の苦しみは、まさに一回限りのことでありました。「一緒にいるわけではない」は、主イエスは死んでいなくなるということではなく、その死は、ユダや弟子達は勿論、私達に至るすべての人間、さらに(パウロが力を込めて語っているように)造られたもの、被造物すべての罪の贖い、赦し、そして新しい命を与えるために、父なる神が、御子・主イエスに託した事柄であったのです。そういう重大なことを、マリアをはじめ弟子達は知っていたかどうか わかりませんが、そういう思いが、マリアが香油を塗るという行為と共にあったということです。