2008-04-01から1ヶ月間の記事一覧

終末

終末は時間の世界(歴史)の終わる時です。それは神様のご計画の中で定められた「時」(神の御子イエス・キリストが永遠の世界から時間の世界に入られたように)です。終末に伴うさまざまな苦難は「産みの苦しみの始まり」(8節)といわれていますが、産婦が…

私達に求められていること

「人に惑わされないように気をつけなさい」(4節)「あわてないように気をつけなさい」(6節)「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)。私達は聖書を通して、このようなことが起こりうることを知らされています。それゆえにこれらの事柄が今、私達の目の…

終末にはどんなしるしがあるのですか

この質問に対してイエス様は、にせメシアの出現、戦争の勃発とそのうわさ、各地での飢饉や地震をあげています。又、信仰者に直接ふりかかる災難については、外からの迫害、内からの離脱者、裏切り行為、偽預言者の出現と相互不信、信仰の衰退が予告されます…

そのことはいつ起こるのですか

弟子達のこの質問に対して、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。ただ父だけがごぞんじである。」(36節)と答えられました。

初めと終り

すべての事柄には初めがあり、そして終りがあります(入学式−卒業式、就職−退職、スタート地点−ゴール地点、月初め−月末、新年−年末、誕生―死)。この世界も「天地創造」という初めの時があって、「終末」という終りの時があることを、聖書は当然のように語…

はじめに

神殿を出られたイエス様がオリーブ山に座っておられた時、弟子達が近付いて来て終末はいつ起こるのか、どんな前兆があるのかを「ひそかに」質問しました。本日の聖書個所から25章にかけて、その質問に答える形で弟子達だけに向けられた説教が記されています。

 24章3−14節

3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 4 イエスはお答えになった。「人に惑わ…

「正しい者は信仰によって生きる」

「正しい者」とは主イエス・キリストを信頼することによって、救いの力を信頼することによって正しい者とされた者です。主イエス・キリストは私共に(丁度ザアカイの時のように)近づいてこられます。「二・三人集まる所には私もその中にいる」(マタイ18:1…

「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(17節後半)

17節前半は、イエス・キリストにおける事柄、後半は私共に対する主イエス・キリストに表れた福音との関係について語っています。「神の義は信仰を通して実現される」。ここに私共の立つ立場、イエス・キリストへの私共の対し方が出ていると思います。福音が…

「恵みの御業(みわざ)によって助け、逃れさせてください。」(詩篇71:2)

口語訳聖書はこの個所を「あなたの義をもって私を助け、私を救い出して下さい」と訳しています。つまり原語は、神の「義」とも「恵み」とも訳される言葉です。宗教改革は「神の義」がイエス・キリスト(福音)に表われる時に、罪人である私共を赦して義とし…

ザアカイに見る神の義と神の愛

別の見方をすれば、イエス・キリストにおいて神の義と愛があらわれているということがザアカイに見た救いに具体化されている、といえないでしょうか。ザアカイの「四倍にして返す」というざんげ・・それはまさに、神の義が直接ザアカイの生活の中に反映して…

「福音には、神の義が啓示されている」(17節)

「福音=主イエス・キリストには神の義が表れている。明らかに示されている。」といえます。「キリストにおいて明らかにされた神の義」とはどういうものであったでしょうか。それを一言で説明しているのが讃美歌262番「十字架のもとぞ いと安けき、神の義と…

「今日、救いがこの家に来た」

この前後の関係を見ると、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」との主イエスの言葉があります。ザアカイのざんげは、この主イエスのザアカイに対する熱い心(愛といっても良い)が、告白をうながしたことは間違いないでしょう。「今日、救いがこの家に来…

悔い改め

「誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」この言葉は、疑わしい生活の中にあったザアカイの持っていた罪の意識(これでは駄目だ。やむを得ないかもしれないけれど、これではダメという罪の自覚)を含んだざんげの気持が入っている悔…

ザアカイの例(ルカ福音書19章)

「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)。(「今日、救いがこの家に起こった」と訳すこともできる。)この言葉は、主イエスに向かってザアカイが示した態度を主イエスがご覧になって語った言葉です。それはザアカイの「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に…

救いをもたらす神の力

この言葉はイエス・キリストの内容、イエス・キリストがどういう御方であるかを最も簡潔に語った言葉ではないかと思います。「救い」という言葉は、一人一人違うのでよくわからない言葉です。その人がどういうふうに救われたか、その人の救いがどうなってい…

福音をイエス・キリストに置き換える

「私は福音を恥としない。福音は・・」という言葉を「私は主イエス・キリストを恥としない。(なぜなら)主イエス・キリストは、・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(16節)と読みますと、主イエス・キリストがもっと具体的に私達に…

はじめに

「福音」という言葉は良い知らせ・Good News といわれるものです。ロ−マの信徒への手紙の冒頭には、福音とは「御子イエス・キリストに関するもの」(3節)と記され、マルコ福音書には「神の子・イエス・キリストの福音」(1:1)と記されています。「・・の…

 1章16−17節

1 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。2 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によっ…

 71:1−8

1 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの…

今や、キリスト教徒が「神の民」を継承

イエス様を信じる時、神様の臨在がそこにあります。神の声は直接聞こえなくても、神の言葉である聖書が私たちの道しるべです。聖書の言葉を私達が豊かに蓄えれば蓄えるほど、必要に応じて、聖霊の働きと共に、その御言葉が神様の言葉として聞こえてきます。…

その結果・・

その結果、彼らは38節で裁きが宣告されます。「見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」と。ここに、ユダヤ教の歴史的な使命が終わったことが宣言されているのです。 24章の一節には、神殿の境内を出ていく時弟子達が神殿の建物を指差したとあります。他…

何度集めようとしたことか

イエス様は、37節で、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。」と過去のこれまでの不従順の歩みを嘆い…

偶像崇拝

イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われた…

エルサレム

イエス様が呼びかけているのは、エルサレム神殿を中心として生活している「神の民として選ばれたイスラエル」の人達です。彼らの歴史は一口にいえば神様への不従順の歴史でした。預言者アモスは「主はこう言われる『ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに私は決…

はじめに

今日の説教題を「ああ、エルサレム、エルサレム」と口語訳聖書から選びました。「ああ」というため息は、その根底に相手への「愛」があり、一生けん命に教えよう、伝えようと努力してきたけれども伝わっていかない、わかってくれないその口惜しさ、嘆き、悲…

 23章37−24章2節

37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38 見よ、お前たちの家は見捨て…

わたしたちの進む道

聖書は美しい言葉で綴られている文学ではありません。時には目をそむけたくなるような人間の罪が暴露され裁きが述べられます。聖書の光によって自分の罪が照らし出された時、私達にもファリサイ派と同じような偽善性があるという事実を厳粛に認めざるを得ま…

「へびよ、まむしの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(33節)

イエス様は当時の宗教的リーダーであり、権威をもっていた律法学者とファリサイ派に対する悔い改めへの希望を放棄されました。もはや、彼らに忠告することは出来ず、彼らは裁きを逃れることはできません。イスラエルの歴史においては正しい人の血が流されて…

偽善の中身

第一には、天の国について語りながら、自分も入らず入ろうとする人をも入らせない。第二には、異教徒をユダヤ教徒にしようと一生懸命だが、彼らがユダヤ教に改宗すると自分より悪い地獄の子にしてしまう。第三には、「責任回避・言い逃れ」の論理。第四には…