2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧

「天使の顔のように」

私達はステファノを通して、この世におけるキリスト者のあるべき姿を学ぶことができます。彼の語る宣教の言葉を聞いて、騒ぎ、恐れているのは告発したユダヤ人であり、一方、告発されたステファノは、「その顔は天使の顔のように見え」(15節)ました。ステ…

知恵と霊によって語る

しかしステファノと議論した人々は、ステファノの前に歯がたちませんでした。その理由を、聖書は「ステファノが『知恵と霊によって語る』」からだと説明しています。知恵と知識の根源は神です。この神の知恵はイエス・キリストにおいて具体的に現われました…

はじめに

使徒であるステファノは、霊と知恵に満ちた評判の良い人であり、また、恵みと力に満ちており、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました(6:3、8)。ある日、ユダヤ人の会堂でステファノが宣教していた時、その話を聞いていたこの会堂に属す…

 6章8−15節

8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立…

 34章29−35節

29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌…

十字架への道

今日の聖書は「神様の御心を求めず自分達の価値観を第一に考えてしまう自分勝手さ」、「イエス様を遣わされた神様を信じきれない、かたくなな不信仰」など、主の十字架への道の背景や状況が記されていました。しかし同時に「真ん中に立ちなさい」と、苦難も…

神の御子イエス・キリストの十字架

イエス様は、イザヤ書に預言されたご自身の苦難と死を事前に知りながら、この地上では父なる神様の救いの業を成し遂げる為に御心に適うようにと働かれました。しかし人々はイエス様の示される「神様へ、その生き方の方向を改める−悔い改め」をしませんでした…

「安息日」の本来の意味

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」イエス様は人々にこう問われました。「安息日には『善』が行われ、『命』は救われるべきもの」という答えは明白でしたが、そのことを公けに言い表す勇気…

イエス様の招き

この招きは私達にも向けられています。「罪の世界から 抜け出て立ち上がり、救い主イエス様の前に進み出る」その決意と実行を主は求めておられます。この世は罪に覆われ、罪は神様からそれ、的はずれの生き方になります。「罪の世界」は神様との関係が壊れて…

はじめに

今日の聖書は、イエス様に対する反対勢力がその反感をますます高めて、いよいよ大きな決断をするところです。イエス様が会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がおりました。イエス様を陥れようとするファリサイ派の人々は、イエス様が安息日にこの人を…

 3章1−6節

1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。4 そして人々にこう言…

 53章4−6節

4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わた…

信仰者に託された言葉

このダビデとヨナタンの友情というのは、彼ら二人だけのものではなくて、今日開きました新約聖書を参照したいと思います。ヨハネによる福音書の第15章14−15節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがた…

何を学ぶか

さて、現代に生きる私達は、このダビデとヨナタンの友情から何を学ぶことができるか、換言するならば、反面教師のサウルの姿から何を学ぶことができるかともいえます。それは、人生における二つの関係、人と神との関係、そして人と人との関係、その二つの調…

主の栄光が離れ去った王

悲劇−悲劇と暗闇といったらいいのでしょうか、それは、このイスラエルの最初の王様といわれるサウルの生涯を覆って、彼の死に至るまで彼から離れなかった。そういう人物であります。主の栄光が離れ去った人物。サウルの生き方は、友情に裏打ちされたダビデと…

困難を自ら招く

三つ目に挙げられるサウルの姿は、困難を回避するどころか困難を自らに招き込むものでありました。ペリシテ人との戦いからサウル王とダビデが一緒に凱旋した時に、出迎えた女性達は楽を奏しながら「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったというの…

自分の使命に対する理解

二つ目に、サウル王は自分に託されていた使命を見失った。戦いに出かける時、当時は勝つことを神様の前に祈るという儀式を執り行っていました。この儀式は祭司がつかさどるべきものでした。ギルガルでのことですが、この犠牲を献げる時刻になっても、祭司(…

サウル王の三つの側面

ダビデとヨナタンの友情と全く(全くといって良いと思いますが)逆の人間性をあらわにしたのが、王であるサウルでありました。同じ3つの側面からサウルという王様の姿を概観したいと思います。 一つ目に挙げられるサウル王の姿は、識見(判断)を見失うこと…

神の前に真実な、契約に裏打ちされた友情

これらの特徴は、ダビデとヨナタンの友情というのが、刹那主義的ではなくて、神の前に真実なもの、契約に裏打ちされたものであることを明らかにしており、彼らの人生を貫き通して存在したのです。無論、このサムエル記上をずっと読んでおりますと、ダビデと…

三つの側面

ダビデとヨナタンの友情の特徴を、三つの側面から概観したいと思います。一つは、識見(物事に対する正しい判断、考え)を誤らせることがなかった、という友情でした。たとえば、父サウル王がダビデを殺すようにヨナタンと家臣全員に伝えます。その時にヨナ…

ダビデとヨナタンの友情

もう一度、サムエル記上18章の箇所を見たいと思います。 「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」(3節) 注目したい言葉は「契約を結び」という表現です。日…

はじめに

「人生・友情・学問」という題の小冊子が教文館から1965年に出版されております。著者は同志社総長であった上野直蔵さんという方です。その本に「友情とは」ということで次のように記されております。 「友情とは、心底を打ち明けて語り合う相互理解であり、…

 15章14ー17節

14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから…

 18章1−9節

1 ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。2 サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。3 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び…

「ダビデとヨナタンの友情」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

伝道所開設五周年記念感謝礼拝

霊と知恵に満たされたクリスチャンへの道を歩もう!

「こうして神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えて行き」(7節)、敵対する祭司達からも、「イエスは主である」との信仰を与えられた者が起こされて信者の群に加わりました。キリストの弟子として招かれている私達は、宣教の業が前…

ただし、現実的な課題も重要である

しかしそれと同時に、「人が生きる」という地上的な事柄への配慮や現実的な課題に対処することの大切さも語られています。この職務をただ漠然と有志の方の奉仕に委ねるのではなく「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選び、その使命が神の力によって遂行でき…

使徒の決断

この時、使徒達のとった行動は、苦情を即、解決しようとするのでなく、弟子をすべて集め、出された苦情をはじめとするさまざまな現実の課題に対処する人を七人選ぶという、宣教の姿勢を根本的にととのえることでした。使徒達が神の言葉をないがしろにしない…

教会に起きた不協和音

さて、初期のキリスト教会では財産を共有し、互いの必要を満たし合いながら、平和が保たれていましたが、本日の聖書によれば、弟子の数が増えてきて、教会の中に不協和音が生じたとあります。内容は、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人…

教会のなりたち

私達はこれまで使徒言行録を通して、教会の成り立つ根拠を見てきました。一つは神の御子であるイエス・キリストが歴史のうちに与えられた(神様から遣わされて地上に生きられた)という事実。2つにはイエス・キリストについての聖書の証言。3つには使徒達…