2010-10-01から1ヶ月間の記事一覧

自己愛からの自由

私達の愛は、自己愛から自分の方に曲がっており、それは体を持っている限り続くのです。今朝も「懺悔の祈り」をしましたが、私達は自己愛から自由であることを常に求められています。そして私達は常に礼拝を通して、神の御言葉を聞くことによって、そこから…

神の義

「神の義」は私達のものではありません。「神によって義とされる」というのは、「神の義」であり「神が認める義」は、神が持っています。それが私共に与えられるということが、説教によって結びつけられるということになります。私達の持っているもの全てが…

聞くことによってキリストと結びつけられる

ではどうしたら、キリストが私達の罪を赦し、私達を義とするということが私共のものとなるでしょうか。 パウロは、キリストの十字架についてコリントの手紙一の1章で語り、「このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」…

神の愛

それに対して「神の愛」というのは、「対象を愛し得るように変える」というのです。人間の愛と180度違うといえます。「人間の愛」は対象によって自分が気に入るかどうかによって生じます。「神の愛」は、愛し得ない者、愛することが出来ない者ないしは愛の対…

私達の愛

ルターは、ハイデルベルクの討論で、神の愛と私達の愛との関連について論じました。「神の愛」についてルターは、まず人間の愛との比較で語っています。「人間の愛」は見た目、感じで判断するという、大体は外から見た目、「真・善・美」で判断します。本当…

恵みのはたらき

ここに神の助け、聖霊(恵み)の働きがなければなりません。この働きによって初めて私共は信じることが許される。キリストを信頼することが与えられるのです。ですから「信仰のみ」という事柄は、実は「恩寵の恵みのみ」ということと密接に関連しているので…

神の言葉を聞く

神の言葉・・キリスト御自身が神の言葉です。それが聖書に記されています。「聖書はキリストがそこに横たわっているまぶねである。ゆりかごである。」とルターは言いましたが、その聖書が神の言葉です。その聖書に即して聖書が語られる。神の言葉が語られる…

聖書・キリスト・信仰・恵み

ルターの宗教改革の特徴として「聖書のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」あるいは、「恩寵(おんちょう)・恵みのみ」と言われます。 その「キリストを信じる」ということについて、私共は自分で「キリストを信じたいから信じる」ということは出来ません。(…

キリストにおいて示された神

ヨハネ福音書に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)とあります。これは先ほどの、「キリストを遣わされた。ここに神の愛がある。」ということの中で、単に十字架につけられた…

犠牲愛

ヨハネの手紙では、「キリストを十字架につけて、私共の為に、罪をつぐなういけにえとした」とあります。これは犠牲の愛です。神の愛は、独り子イエスを犠牲にする犠牲愛である、と言えるでしょう。自分の独り子を犠牲にするような犠牲愛は私共の中にはない…

「ここに愛があります。」(10節)

先ほど読んでいただいた聖書の中に「ここに神の愛がある」という言葉がありました。「ここに神の愛がある」というのは大変な聖書のメッセージです。「ここに愛がある」。たった短い一言がここに書かれています。それは、「神は、その独り子キリストを、私達…

はじめに

宗教改革から150年を経た1667年に、10月31日を宗教改革の記念日とすることを、ドイツとスイスとフランスのプロテスタント諸教会、及びアメリカの教会(その時点ではルーテル教会)が加わり、決めました。それは、1517年10月31日に、最初の宗教改革者(といっ…

4章7−12節

7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたした…

20章1−3節、13−17節

1 神はこれらすべての言葉を告げられた。2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。13 殺してはならない。14 姦淫してはならない。15 盗んで…

「福音のためなら、私はどんなことでもします。」(一コリント9:23)

パウロの考えからすれば、この提案・・すなわち四人の誓願者と共に神殿に行き、清めを受け、彼らの頭をそる費用を出すという「律法を守る行為」をあえて行なう必要はありませんでした。彼は律法から自由にされていたからです。しかしパウロはこの提案を受け…

「うわさは根も葉もない」と分かってもらう提案

ヤコブをはじめエルサレム教会の長老達は、パウロを正しく理解していたでしょう。しかし熱心に律法を守っているユダヤ人キリスト者の間に広がるうわさを信じる人達は、パウロがエルサレムに滞在していることを知るならば、必ず騒ぎ出してパウロを捕えようと…

悪意あるうわさ

エルサレムの長老達は、パウロについて心配していることがありました。それは、パウロがキリスト教に改宗したユダヤ人達に、「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、律法を守ることから離れるように教えているという「悪意のあるうわさ」でした。勿…

はじめに

パウロの三回目の、御言葉を伝え続けた伝道旅行が終り、エルサレムに到着したパウロ達一行は、同じ信仰の仲間達から喜んで迎えられました。翌日パウロは、同行した7人とルカ(使徒言行録の著者であり医者)と共に、当時エルサレム教会の指導者となっていたヤ…

21章17−26節

17 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。18 翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳し…

6章1−5節

1 主はモーセに仰せになった。2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、3 ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。ま…

耳と口

礼拝にはイエス様が共におられ、私達の賛美や悔い改めや、とりなしの祈りや、祈りに含まれる私達の苦しみや悩みも聞いておられます。私達の耳は、聖書を通して神様の御言葉を聞き、説教のみならず礼拝のすべてのプログラム(黙祷から祝祷・後奏まで)で、聖…

「話してはいけない」

イエス様の「エッファタ」との御言葉により、耳と舌に障がいを持った人は、たちまち耳が聞こえるようになり、話せるようになりました。この後イエス様は人々に「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされました。しかし人々は、「かえってますます言…

イエス様の奇跡

イエス様のなさる奇跡は、ほとんどがイエス様の発する御言葉によってなされています。しかし今回、いやしを求めている人は、耳が聞こえず、舌が回らない人です。イエス様の言葉を聞くことが出来ないこの人の為に、イエス様はご自分がなさろうとしていること…

はじめに

今日の聖書は、イエス様が、故郷のガリラヤに隣接する都市をめぐって福音伝道の旅から戻って来られたところから始まります。ガリラヤ湖畔に戻られたイエス様を待っていたのは、イエス様の癒しの奇跡の噂を聞いたと思われる人々でした。今日の箇所では、人々…

7章31−37節

31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけ…

35章5−10節

5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。…

「主の御心が行われますように」

パウロは、エルサレム行きを危険だからという理由で断念することは、自分に与えられた使命をおろそかにすることであり、イエス・キリストに対して不誠実と考えたのでしょう。以前パウロは「私はエルサレムに行った後、ローマも見なくてはならない」と言いま…

アガボの預言

フィリポの家に、預言者アガボが来た時のことです。アガボはかつて大飢饉が世界中に起こると予告し実現しています(11:27−)。アガボはパウロに向かって、パウロがエルサレムで鎖につながれて、ローマ人に引き渡されると預言しました。これを聞いて、パウロ…

カイサリアでのフィリポとの出会い

ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、その翌日カイサリアに着きました。そこには伝道者フィリポの家があり、パウロ達一行は数日間滞在したことが報告されています。フィリポは、最初のキリスト教会の世話役として選ばれた、“霊”と知恵に満ちた評判…

ティルスでのキリスト者達との出会い

ティルスには、かつてエルサレムの迫害から逃れてきたキリスト者達の伝道によって出来た群があったようです。パウロは、船が荷物の陸揚げの為に停泊していた一週間を利用して、キリスト者達の群れを探し出しました。そしておそらくいつものように、キリスト…