キリストにおいて示された神

 ヨハネ福音書に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)とあります。これは先ほどの、「キリストを遣わされた。ここに神の愛がある。」ということの中で、単に十字架につけられたというだけではなく、そのキリストは、神がどういう方であるかということを、キリストの生涯、教え、そして十字架と復活という全体で私共に示されたということです。もう少し広く考えますと、キリストにおいて、神がどういう方であるかということが、神の愛だけではなく、全てが示された。そのキリストにおいて示された神は、誰も見たことのない神です。


つまり私共は、(ルターの言葉によると)「神がおられる」ということは知らなくはない。信じなくはない。あるいは、うっすらと感じる。しかし、その神がどういう神であるかということは何も知らない。まさに、人間が神について考える時には、そういうものがあるわけです。例えば哲学者が神の存在の証明などをやりますけども、恐らく誰もそれによって神が証明されたとは信じないでしょう。


キリストにおいて神が示された。」その、神が示された(啓示)ことは絶対的なものである、ということを、私共は知ることができるのではないかと思います。「神を見た者はまだ一人もいない。ただ・・独り子なる神だけが、神をあらわしたのである」(口語訳ヨハネ福音書1:18)。そのことを、「キリストが遣わされて、キリストにおいて神の愛が示された」という中に含めて、記憶しておきたいと思います。