犠牲愛

 ヨハネの手紙では、「キリストを十字架につけて、私共の為に、罪をつぐなういけにえとした」とあります。これは犠牲の愛です。神の愛は、独り子イエスを犠牲にする犠牲愛である、と言えるでしょう。自分の独り子を犠牲にするような犠牲愛は私共の中にはないけれども、しかし、犠牲愛は私共の中にもあるような気がします。たとえば列車のホームから人が落ち、そこに電車が走ってきた。その時に自分の死をかえりみないで線路に飛び降りて、線路に落ちた人を助けることがたまにあります。これはまさに犠牲愛と言っていいものではないかと思います。但しそのような犠牲愛は、瞬間的に人間の中に起こるかも知れませんが、いつも常にあるとは言いにくいのではないかと思います。確かに、家族の中で、友人に対して、何か自分を犠牲にする、自分が損をする犠牲愛といってよい事柄が普段にも行われているのではないかと思います。しかし私共の中で行われる犠牲愛というのは一体どういうものかということを、少し考えてみたいと思いますが、そのことを考える為に、もう一度、聖書の言葉を見てみたいと思います。