2007-06-01から1ヶ月間の記事一覧

奇蹟の究極の目的

イエス様のなさる奇蹟は神様の業があらわれた結果であり、奇蹟の目的は、神様が賛美されること、神様に栄光が帰せられることです。神様を信じ従う者には、今もいろいろな形で神様のわざが起こっています。私達はその証人です。奇蹟を見た私達のすべきことは…

イスラエルの神

ここで「神」といわずに「イスラエルの神」となっているのは、彼らがイスラエルの民以外の民(異邦人)であったからではないかと考えられています。カナンの女が助けを求めた時イエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」と、…

「イエスはこれらの人々をいやされた」(30節)

イエス様の足下に横たえられた人々の上に大きなことが起こりました。「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」(31節)のです。彼らを連れてきて、このイエス様のいやしの奇蹟…

山に登り、座られた。

今日の聖書は、イエス様がカナンの女に出会った旅からガリラヤに戻られ、山に登られた時のことが記されています。山上の説教でもそうでしたが、イエス様は人々に教えられる時、腰を下ろして語られました。 大勢の群衆がやって来ましたが、彼らは、自分の力で…

生まれつきの盲人

ヨハネ福音書9章には生まれながらの盲人がいやされた話が記されています。イエス様の弟子達が彼を見て質問しました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。イエス様は次のように答えられま…

はじめに

私達には生まれながら、見ることが出来る「目」聞くことが出来る「耳」かぐことが出来る「鼻」味わうことが出来る「舌」触れることが出来る「皮膚」―五官が与えられ、又、運動機能が与えられています。しかしその一方でこれらの機能が生まれた時から奪われて…

 15章29−31

29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエ…

いのり

天の父なる神様、あなたが御子イエス・キリストの十字架の罪の贖いを通して、私達に自由を与えてくださり、本当にありがたい赦しを与えて下さいました。このことに感謝しつつ日々の生活に励んでいくことができますように。そのことを知らずに私達の人間同志…

おわりに(この部分の文責は佐藤義子牧師)

神様のさばきとゆるしは、イエス・キリストの十字架に示されています。神様はこういうふうにして私達を裁いてくださった、と私達は信じて、教えられた通りに日々の生活に励んでいくしかありません。これは本当に恵みです。その恵みの中に、40年前に娘を失わ…

戦没者慰霊(この部分の文責は佐藤義子牧師)

「非業の死」を遂げた人達の霊を弔わなければいけない。戦争のリーダー的責任を負った人達にとっては戦没者の慰霊は大きな問題です。裁く神、しかも赦して下さる神様がいない為に、何とか弔い上げをしたいという思いが、靖国・千鳥が淵の問題に表れてきてい…

十字架は、罪の裁き・罰・赦し 

「非業の死」という言葉があります。非業の死とは仏教用語で、前世の報いによらないように思われる死のことです。仏教は「輪廻転生・信賞必罰」 と教えます。ところがそれでは説明がつかないことがあります。特に、なぜ死んだか説明できない人達には私達の心…

キリスト教の救い

日本人は裁きをうやむやにしたい。まあまあでやっていきたい。しかしそこにきちんと「裁き」があり、受けなければならない「罰」があり、それをきちんと受ける。そこに「赦し」がある。これが、キリスト教の救いです。

教誨師の話

牧師で教誨師(受刑者にそれぞれの宗教の立場で教える牧師やお坊さん)をやっている方が書いておられました。刑務所では講義形式で行う集合教誨、10数名程度の定員にしぼって行う座談会教誨、個別にカウンセリングを行う個人教誨があり、どれも受刑者個人の…

私も・・

福音を聞き、十字架が罪の裁きと罪の赦しであると知って素晴らしいと思いました。私自身も罪人である自覚を持ちました。それをイエス・キリストが背負い、私の代わりに罰を受けて下さり私がこのまま生きていけるようにして下さっていることを知りました。こ…

年配のおじいちゃんの話

「私は昔、特攻隊だった」と毎週のように話される方が教会にいます。死ぬ覚悟で出かけて行き、途中で不時着やトラブルで引き返したりした、その内の一人でした。死んだ仲間のことが重くのしかかって忘れられない中で、その方はキリスト教信仰で乗り越えられ…

神様に任せる

神様にお任せすれば、私に代わってイエス・キリストが十字架の上で結末をつけて下さり、私はこのままで生きていける。教会でその思いをささげながら、罪の赦しを受けながら生きていくしかない。しかしそれが、自分にとって「恵み」だということです。

ある老婦人の証し

以前、東北学院大学で教えておられたS先生が特別伝道にいらして、一人の老婦人の話をされました。赴任後まもないある土曜日に面談の約束をして会った老婦人は、なぜ自分がキリスト教徒になったかを一枚の古い写真(それは16才の娘の公園で撮った写真)を示し…

私達の信仰告白

私達は使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と最後の審判に対する信仰を告白しています。これがキリスト教の信仰です。決して正義をないがしろにするわけではありません。その正義の水準を神様の水準で裁かれるべきと考…

私達は裁かない。なぜなら・・

あなたが量るその量りであなたも裁き返されるということを本当にしっかり心に留めなさい。心に留めるならば、人を裁けない筈です。私達は人を容易に裁きながら「あなたにそういわれたくない」と人から裁かれたくないのです。自分に甘く自分中心です。しかし…

裁きがなくなるわけではない。

神様が裁いて下さる。だからあなた方がなすべきことは人を裁くのではなくて、せめて、人に手をあげず裁かず仲良く暮らしなさい。それ以上に出来るならば、敵を愛しなさい。あなた方が生きている時にすることはそういうことだ。それに徹しなさい。裁きがなく…

旧約聖書と新約聖書

旧約のイスラエルの民は「神の裁き」をどのように受けとめていたか。大きくいうならば、イスラエルの民は「神様は私達の味方で、私達に意地悪する敵に対して裁きをしてくださる神」と信じていました。しかし新約では「裁いてはならない。あなた方が神を味方…

「復讐するは我にあり」

佐木隆三さんという人が同名の犯罪人の小説を書いていて、必ずそこには正当な裁きがあるし、なければいけないというのですが、又、新しく書いていて、この聖書の言葉の意味を作品の中でしっかり受けとめています。私達はそれ以上に受けとめなければなりませ…

ローマの信徒への手紙12章17節−21節

コリント書を書いた同じパウロがロマ書で以下のように書いています。 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒…

裁くのは審判なのです。

捕手がストライク・ボールの判定をするわけではありません。そのようにルールで決められていて、審判の言うことを聞かないと試合は成り立ちません。ですから早まって裁いてはならない。「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(5節)。私達…

はじめに

40年位前の話ですが、野村監督が南海ホークスの捕手をやっていた時の日本シリーズ(対巨人戦)の巨人が三連敗した後の試合の時です。この試合でも南海が勝っており九回のツーアウトまでいき、この打者であと一球ストライクをとれば終り!という時でした。外…

 4章3−5節

3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたし…

説教要旨 「裁くのは主です」 西谷幸介先生

この日は仙台南伝道所開設三周年感謝礼拝でした。

恵みが取り去られた時も・・

神様が祈りを聞いて下さらないことがあります。祈っても祈ってもこちらを向いて下さらない。そのような時に、私達はあきらめずにこの母親に答えて下さったイエス様に信頼し続けたいと思います。 私達は、神様の恵みを頂いていることがいつしか空気のように当…

詩編・叫びの祈り

旧約聖書の詩編にも、叫びの祈りがあります 22:20 「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい」 30:11 「主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい」 31:17 「あなたのし…

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」

イエス様がこう女に言われたその時、娘の病気はいやされました。この母親は、「神様の御計画による順序」を受け入れました。「異邦人は選びから外れている」ことを受け入れ、イエス様は正しいお方であることを前提にしながら、なお、イエス様から離れまいと…