2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧
イエス・キリストは告げます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同32−33)。 イエス・キリストは「その日…
二つの点に注目したいと思います。 第一は「その日の苦労はその日だけで十分である」。 今日のんびりと過ごしなさいと言う意味ではありません。一日の内にはかなりの労苦がある。苦労がある。苦労という言葉を直訳すると「恨みや悪意」という意味で用いられ…
ところでその後、イエス・キリストは劇的な変化を示します。 どういう変化かと申しますと、旧約聖書から引用するのではなくて、「ご自分の言葉」によって言葉を伝えている。ガリラヤ湖畔の山上において、イエス・キリストは民衆や弟子達に語るのです。 「『…
この申命記は、モーセによってエジプトから導きだされ、荒れ野をさまようイスラエルの民たちのことが言われているのです。あのイスラエルの民は、エジプトから出て、荒れ野でひもじい思いをしていました。そして彼らはつぶやきます。「我々はエジプトの国で…
「聖書の言葉に基づく信仰」という理念は、ルターが言った言葉ですが、それはルターが初めてということではありません。すでに、イエス・キリストに見られます。本日の聖書に「イエスはお答えになった『人はパンだけで生きるものではない。』(マタイ4:4)…
ルターが修道士になった頃もそうでしたが、カトリック教会のミサではラテン語の聖書が用いられ、ラテン語で典礼が行われていました。 宗教改革の50年ほど前、1455年、ドイツで印刷技術がグーテンベルクによって発明されていましたので、聖書はすでに印刷され…
本日は宗教改革記念の礼拝です。 今を去ること約500年前の1517年、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に、95カ条の提題の紙を貼りだしたことを記念しての礼拝です。 宗教改革は、ルターにとどまらず、その後のジャン・カルヴァンの改革…
東北学院大学 佐々木哲夫先生
34節以下の譬えは、留守を託された僕や門番が、帰りがいつになるか分からない主人を迎える為には、日常的にしっかり任務を遂行していなければならないことを教えています。罪が横行するこの世の闇の中に、世の光であるイエス様が再び来られることの比喩です…
今日の旧約聖書「草は枯れ、花はしぼむが 私達の神の言葉はとこしえに立つ」(8節)にあるように、神様の御言葉は永遠で、はかない人間の発する言葉とは性質が違います。神様の御言葉は、御心(御計画)を必ず成就させる力があります(イザヤ書55章参照)。…
マルコ福音書13章は、「終末の日」についての弟子達の質問から始まり、イエス様が分かりやすく答えようとされた教えで構成されています。質問は、「それがいつ起こるのか」、そして「どんな徴(しるし)があるか」でした。今日の聖書は「いつ起こるか」につ…
「終末についての御言葉(1)」では、戦争、地震、飢饉、迫害の記述があるけれども、その一つ一つの出来事に怯える必要はなく、むしろ、イエス様の勝利によって、サタンが支配する古い世界から、神様の愛の広がる新しい世界が生まれる希望を見い出しました…
先週(10月21日)の礼拝説教要旨
イエス様がラザロの墓の石を取り除けるように言った時、マルタは、遺体の死臭を気にしました。しかしイエス様は、「もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、石がのけられると、まず天を仰いで神様に感謝の祈りを捧げました…
イエス様のこの言葉はわかりにくいのですが、その理由として私達は「今、自分は生きている」と考えているからです。私達は肉体的に生き、呼吸していれば「生きている」と考えますが、イエス様は違います。 私達が神様から遠く離れて生きている状態は「死んで…
イエス様がマルタとマリアのところに到着した時には、ラザロは既に墓に葬られ4日もたっておりました。イエス様が来られたことを聞いたマルタはすぐ村の入り口まで迎えに行き、そこでイエス様から「ラザロは復活する」と聞かされます。マルタは、復活は終末の…
日本キリスト教団では、10月第二日曜日を「神学校日」「伝道献身者奨励日」と定め、神様の御用の為に自分の生涯を献げることを奨め励まし、又、神学校を覚えて祈り、献金を通して支える日でもあります。私達の伝道所では四年前、遠藤兄が献身されました。現…
本日の聖書は、ラザロの復活の出来事の前半部分です。ベタニアに住むマリアとマルタ姉妹は人を遣わして、イエス様に兄弟ラザロの病気を知らせましたが、イエス様がベタニアに向かわれたのは、その2日後でした。 ベタニアはエルサレムに近く、エルサレムには…
本日(10月第一日曜日)は「世界宣教の日」です。世界で、宣教師として働かれている方々を覚えて祈り、又、その働きのために献げる日です。 かつて仙台で働かれた宣教師の方達は数えきれないほど多くおられますが、今朝は尚絅学院にかかわったお二人の宣教師…