「神の言葉」が先立って必要である

 この申命記は、モーセによってエジプトから導きだされ、荒れ野をさまようイスラエルの民たちのことが言われているのです。あのイスラエルの民は、エジプトから出て、荒れ野でひもじい思いをしていました。そして彼らはつぶやきます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16:3)。
こんな不平を、イスラエルの人々は指導者であるモーセにつぶやいた。
「腹が減った。奴隷であったとしてもエジプトにいて、腹一杯食べた時のほうが良かった」と不平を言った時に、神が与えたのが、朝に「マナ」、夕には「うずら」だったわけです。マナはパン、うずらは肉として与えられたものです(森永製菓のビスケット「マンナ」がここからとられたのは有名な話)。 
神が食べ物を与えた。人々がそれを食べた。その時に、申命記の「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られているのです。
驚くべきことに、生きる為に必要なパンと肉が与えられた。すでにパンと肉が与えられた人々に、その言葉が語られた。「パン」が必要か、「神の言葉」が必要か、ではなくて、すでにパンを与えられた人々に、『人はパンだけで生きるのではない』と語られたのです。すなわちパンか、神の言葉か、ではなく、「神の言葉が先立っている、先立って必要だ」ということをこの時に語られたということです。