2007-11-01から1ヶ月間の記事一覧

主がお入り用なのです

見慣れぬ二人の旅人が勝手にろばをほどくのを許可した村人の判断は、「主がお入り用なのです」というその一言で十分であったようです。このようなことは、見える地上ではあり得ないことです。しかしイエス様が必要とされるものにはそのプロセスにおいて、見…

旧約聖書の成就

子ロバにのってメシアがエルサレムに入られることは、ゼカリヤ書で預言されていたことでした。マルコ福音書には、二人の弟子がロバのひもをほどいた時、そこに居合わせたある人々が「その子ロバをほどいてどうするのか」と聞いてきた・・とあります。二人は…

二人の弟子の仕事

イエス様は「向こうの村に行けば、すぐろばが見つかり、そのろばと一緒に子ロバがつながれている。それをほどいて引いてきなさい」と言われました。二人の弟子はろばを探すために奔走することなく、言われた通りに従うことで、イエス様の手足としての役割を…

エルサレム入城

イエス様はエルサレムの町にお入りになるにあたり、勝ちどきをあげて自分の国に帰ってくる王のように、入城することを考えておられました。但し一番違うところは、馬ではなく「ろばに乗って」ということです。馬が戦いの象徴とすれば、ろばは平和の象徴です…

はじめに

今日の聖書は、毎年、受難週の初めの日曜日(しゅろの日曜日Palm Sunday)に読まれる個所でもあります。イエス様はご自分の受難と復活を予告されましたが、その苦しみを受ける為にエルサレムに近いオリーブ山沿いのベトファゲまでやってきました。町についた…

 21章1−11節

1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのと…

私達の信仰の目も・・

イエス様は盲人を深く憐れみその目に触れられました。盲人は、彼らの確信通り見えるようになり、イエス様に従う者となりました。私達も「主よ、憐れんで下さい」と信仰をもってイエス様を呼び求め、「何をして欲しいのか」と尋ねられたら、「信仰の目を開け…

「主よ」

わずか6節だけの聖書箇所で、盲人の「主よ」との呼びかけは3回もなされます。彼らは自分達が「誰に」「何を願うべきか」を知っていました。(「自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス様から言われた前出の母とは対照的です。)このお方こそダビ…

「何をして欲しいのか」

この個所のすぐ前のゼベダイの息子達の母の願いとは対照的に、盲人の願いはこれ迄の暗い苦しみの淵からの叫びであり、その声はイエス様の耳に届きました。イエス様は彼らを呼び「何をして欲しいのか」と尋ねました。イエス様が盲人の思いを知らないはずはあ…

盲人のイエス様への思い

盲人はこれまでイエス様が中風の人、手のなえた人、足の不自由な人、口の利けない人、何よりも自分達と同じ目の見えない人を癒されたうわさやイエス様の教えについて聞いていたに違いありません。二人の心にはイエス様に対する信仰が芽生え育ち、イエス様こ…

二人の盲人の叫び

イエス様がエリコの町を出てエルサレムに向かうことを知り、群衆は自分達も過越の祭りの為にエルサレムに行くので後についていきました。イエス様を慕ってのことでしょう。その途中、道端に座っていた二人の盲人が突然「主よ、ダビデの子よ、私達を憐れんで…

はじめに

聖書の基本的な読み方として「私にとって」「今」「ここで」の読み方を以前お話しました。私達は「ああ、この話はあの人に丁度良い話だ。あの人に聞かせたい・・」などと思うことがないでしょうか。そのような時は、話が自分の前を素通りしてしまっています…

 20章29−34節    

29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人は…

復活の主を見上げる弟子達の延長線上に立つ。

私達はイエス・キリストの弟子達の延長線上にある者です。その延長線にはペテロがおり、イスカリオテのユダがおり、そしてパウロもいます。2000年の歴史を貫いて、多くの人々がその延長線上で実存をかけつつ生きてきました。その全ての人々にイエス・キリス…

天を見上げる11人の弟子

さて、私が奉職している大学の礼拝堂正面のステンドグラスに、その後のイエス・キリストの姿、復活のイエス・キリストの天に昇る姿が描かれています。今まさに、天に帰ろうとしている復活のイエス・キリストです。そしてその下に、そのイエス・キリストを見…

裏切りの結末

しかしユダの場合、イエス・キリストを敵に渡したことが、たったそれだけのこと、と思っていたそのことが、十字架へとつながっていく展開に気がついたのです。ユダは驚きます。そこまでは考えていなかったのでありましょう。イエス・キリストを殺すというこ…

第三:イエス・キリストはユダに対して無力であったか?

第三に考えたい点は、イエス・キリストはユダのはかりごとに対して無力であったのか、言い換えるならば、ユダは救われる余地がない程に、決定的に滅びに定められてしまった罪人なのか?ということです。ユダは聖書の中で、使徒のユダと紹介されており、会計…

先生と弟子達の食い違い

ところで、香油を注いだベタニヤの女性を非難したのは、一人イスカリオテのユダだけではなく、他の弟子達も一緒にそのことを批判したようです。即ちこの出来事は、弟子達の考えと、先生であるイエス・キリストの考えが微妙に食い違っていることをあらわにし…

第二:ベタニヤでの出来事

ユダがイエスを裏切ろうと決断する直前に、一つの出来事がありました。ベタニヤの女性がイエス・キリストの頭に高価な香油を惜しげもなく注いだ、という出来事です。非常に高価な香油でした。ユダは「なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人々に施さ…

第一:ユダは欲得で裏切ったのか?

「裏切り」とは、敵に内通して主人や味方にそむくこと(広辞苑)です。特にユダは、イエス・キリストという先生(主人)を祭司長・律法学者・長老に引き渡すということで、イエス・キリストを裏切ろうとしていました。マタ福音書や他の福音書を見ると、ユダ…

はじめに

ユダヤのカリオテ村の出身者が、イスカリオテのユダと呼ばれていたイエス・キリストの弟子、12弟子の一人でした。彼は、イエス・キリストを裏切ったことから「裏切り者」の代名詞として知られている人物です。(マルコ福音書によれば)イスカリオテのユダは…

 14章43−50節

43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃が…

本日の礼拝は、召天者記念礼拝として守っています。生まれながらの私達人間は、罪ふかく、誰一人として天の国に行くことは出来ません。もしイエス様が来て下さらなかったら、私達にとって死は絶望でありました。死はすべてのものを無に帰するものではなく、…

<フィリピ書2章3節−11節>

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストイエスにもみられるものです。 キリストは…

へりくだり、従順であられたイエス様

イエス様は周囲から抜きんでて他人を見下げるような、他人を小さくするような力を退けます。他者を大きくし、他者を高め、他者を強くするように力を用いることを教えられます。イエス様は、人を富ませることはあっても、ご自分を富ませることはなさいません…

三つ目の問題点

三つ目の問題点は、この願い事を知って腹をたてているほかの弟子達も含めて、「天の国においては、この世のあり方とは違う」ということがわかっていないことです。この世では、支配者は支配される者に力をふるい、彼らを従わせることが偉大なこととして評価…

二つ目の問題点

二つ目の問題点は、母親は願う相手を間違えているということです。イエス様は確かに神の国において主でありたもうお方です。しかしイエス様の力の根源は父なる神様への服従に基づいており、父なる神様の決定こそイエス様の原則です。誰が左右に座るかという…

三つの問題点

しかしこの願いに対してイエス様は三つのことを教えられています。一つは、イエス様が将来王座につくことになるのは、これから迎えることになる受難の一つ一つのプロセスを、神様から与えられた使命として従順に従うその結果です。イエス様の左右に座る者は…

ヤコブとヨハネとその母の願い事

この後、ヤコブとヨハネ(兄弟)の母親が願い事をする為に、二人の息子と一緒にイエス様のところにやってきました。この二人は12弟子の中でもペテロと一緒にいつもイエス様と行動を共にしていた弟子でした。母親の願いとは、将来、自分達の息子をイエス様の…

はじめに

今日の聖書には、イエス様の三回目の「十字架の死と復活」の予告がされています。イエス様の受難は、まずユダヤ人に引き渡されて死刑が宣告され、その後異邦人(ローマ人)に引き渡され、侮辱され、むちで打たれてから十字架刑の執行を受けるという予告です…