第三:イエス・キリストはユダに対して無力であったか?

 第三に考えたい点は、イエス・キリストはユダのはかりごとに対して無力であったのか、言い換えるならば、ユダは救われる余地がない程に、決定的に滅びに定められてしまった罪人なのか?ということです。ユダは聖書の中で、使徒のユダと紹介されており、会計係を担当し、キリストに接吻して挨拶するほど近しい関係にあった側近中の側近の弟子です。そのような人物が救われる余地のないほどに滅びに定められていたと考えることは出来ませんし、ユダの罪を救えなしほど、無力なイエス・キリストであるとも考えられません。聖書は最後の場面で、キリストが弟子達にパンを裂きぶどう酒の杯を与えたと記していますが、こんな言葉を語っています。「見よ、私を裏切る者が私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められた通りに去っていく。だが、人の子を裏切る者は不幸だ」。弟子達はその言葉を聞いて「一体誰がそんなことをしているのか」と互いに議論し始めたと記されておりますし、イエス・キリストは又、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われたとも記されています。あのレオナルド・ダ・ヴィンチが描き出そうとしているその決定的な瞬間です。哀れなことに、その時弟子達は自分達の内で誰が一番偉いだろうかと議論しているのでもあります。まさに、ユダの汚れは弟子達に共通の罪であり、罪の汚れでした。