神と共に生きている。だから、何よりもまず・・

イエス・キリストは告げます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同32−33)。
イエス・キリストは「その日の苦労は、その日だけで十分である。」と語りましたが、当てのない楽天的な言葉で語ったわけではない。一生懸命生きよ、というのですが、しかし単に励ましているのではない。そこには秘訣がありました。

一人だけで一生懸命生きているのではなくて、あなた方に必要なことをご存知であり、みな加えて与えられる「神」が共に生きている。神と共に生きている。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。ということが肝要なのだというのです。
さきほど私が述べたような理屈は、まさにイエス・キリストの言葉でいえば、「信仰の薄い者たちよ」と一蹴されてしまうことでしょう。
否むしろ、何よりも「神の国と神の義を求めなさい」というのは、実に信仰者に与えられている秘訣なのです。

さて、イエス・キリストはこのような言葉を、旧約聖書と同じ権威をもって人々に語りました。初代教会は、そのことを正しく理解しました。すなわち、旧約聖書新約聖書を等しくキリスト教の「正典」と定めたのです。「正典」というのは、キリスト者の信仰と生活の規範・物差し・基準ということです。
 ルターは、その聖書の言葉を、「堅き岩」、「土台」、「物差し」、「規準」としたのです。

 私達も、宗教改革の伝統に生きている教会として、改めて、旧約聖書新約聖書の言葉を土台として生きている、ということを再確認したいと願うのであります。