偶像崇拝

 イスラエルの人々は預言者を通してこうした神様の言葉を聞き、時に悔い改めることもありましたが、しかし再び神様から離れ、目に見える偶像へと走り、悪を行う繰り返しでした。預言者はその時代の人々からは決して歓迎されませんでした。神様が最も嫌われたのは偶像崇拝です。偶像崇拝は神でないものを神とすることです。「国々の偶像は金銀にすぎず人間の手で造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、のどがあっても声をだせない。偶像を造り、それにより頼む者は皆、偶像と同じようになる。」(詩篇115)。
私たちの国日本は、偶像の国といっていいほど、たくさんの偶像があります。私自身子供時代は水神町という水の神様を祭っていた町にすんでいましたし、小学校の修学旅行では鎌倉の大仏を見に行きました。中学校の修学旅行では平泉の中尊寺をみて、高校では京都の仏閣めぐりもしました。しかし詩篇にあるように、偶像は何にも言いません。偶像から自分の間違いを指摘されることはありません。結果的に自分が思うように行動する。つまり神に祈りながら、自分が神の立場に立ってしまい、自分が基準になっています。