52章4−10節

主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
(7節)いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

はじめに

本日から待降節アドヴェント)に入りました。教会の暦では、待降節から一年が始まります。(教会暦:待降節降誕節−受難節−復活節−聖霊降臨節)。待降は、主のご降誕を待ち望むという意味がありますが、アドヴェントは「来臨」という意味がありますので、待降節はイエス様が人として生まれられたご降誕の日を迎える心の準備をすると共に、再臨(終末に再びイエス様が来られる)への準備の時ともなっています。

今日は、全世界の教会で、4本あるローソクの1本に火がともりました。クリスマスまでの四週間、アドヴェントにふさわしい過ごしかたをしていきたいと願っています。

イエス様をお迎えする準備

私達は、四週間後に我が家にイエス様がおいでになると知らされたら、どうするでしょうか。部屋の大掃除のこと、おもてなしのこと、友人知人達への案内状や、イエス様にお会いしたら、ぜひお聞きしたいこと・・など、イエス様が来られると考えただけで、頭の中はくるくると廻り始め、落ち着かない日々が始まるのではないでしょうか。

しかし、ルカ福音書10章に記されているマルタとマリアの話の中で、イエス様をもてなす為にせわしく働いていたマルタに、イエス様は次のように言われました。「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

アドヴェントがイエス様のご降誕および再臨の、心の準備をする時であることを思う時、この四週間、思い悩む事柄を一つ一つ神様にお委ねし、心の中にある捨てるべきものを捨てて、マリアのように私達の心をイエス様に明け渡し、静かに御言葉を聞く心の備えをしたいと願うものです。

 

回復の預言

本日の旧約聖書イザヤ書52章は、捕囚の民であったイスラエルの民を、神様が本来の姿に戻すという回復の預言です。イスラエルの民は、再び「神の民」として、異国バビロンからエルサレムに帰還し、エルサレムの神殿において、神様を礼拝する日を迎えるという預言です。

エルサレムに、神様が「王」として帰って来るというその「良い知らせ」を伝える預言者の足は何と美しいことか、と7節から始まる喜びの知らせは、見張り(エルサレムの城壁から辺りの警護に勤める者)たちの歓声を呼び起こし、さらに、この見張りの歓声は、エルサレムの人々の喜び歌う姿へと連鎖していきます。8節では、捕囚民が解放されて、エルサレム神殿の礼拝の時に用いるさまざまな祭具を担って、バビロンからエルサレムに戻って来るのを目の当たりにすると預言します。このことは、神様が、捕囚の民を慰め、贖われた証しであって、これはエルサレムだけの喜びに終ることなく、今や、世界の国々、地の果てまでも、全ての人が、神様の救いを仰ぎ見るという力強い預言です。

この捕囚民のエルサレム帰還は、数年後に実現しました。さらにすべての人が神さまの救いを仰ぎ見るとの預言も、二千年前に実現しました。

 

信じる者

  今日の新約聖書でイエス様は、「私の言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と言われます。
旧約聖書のメシア(救い主)誕生の預言は成就しました。聖書を通して語られる神の御子イエス・キリストの言葉を信じ、御子を遣わされた父なる神様を信じる者は、その信仰を通して、死ぬべきものから命へと移され、永遠の命を与えられます。