はじめに

エス様はこの日、朝早くエウサレム神殿の境内に行かれると、イエス様の教えを聞きたくて人々が集まってきました。イエス様はそこに座り、教え始められました。ところが突然、律法学者達が一人の女性を連れて来て、真ん中に立たせ「この女性は、律法の中でも厳しく禁じられている姦淫を行った女性である。律法は、石打ちの刑で死刑を命じている。ところであなたはどう考えるか。」とイエス様に質問してきたのです。

姦淫の罪

姦淫とは夫と妻以外の男女の、不義の関係を言います。十戒でも殺人と並んで姦淫は禁止されており、レビ記に「人の妻と姦淫する者は、姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあり、この前に「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」とあります。申命記にも「姦淫の罪を犯した男女は共に石で打ち殺さねばならない」とあり、その後に「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」と、イスラエル共同体が神様の祝福をいただく為には、神様の戒めを守ることが大前提となっておりました。

イエス様の教え

エス様は、姦淫が重い罪であることを否定していません。それどころか、山上の説教では「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」。イエス様は、このように、性的な領域に於いて純潔を求められておりました。

沈黙

 イエス様は、律法学者達の質問に答えようとはされず、地面に何か書き始められました。なぜイエス様は答えようとされなかったのでしょうか。
それは、彼らの質問がイエス様を訴えるための「わな」であることをご存じだったからです。イエス様は神様の愛を語り、「罪人」と呼ばれる人達の「友」として慕われておりました。律法学者達には、このイエス様の憐れみ深い心や柔和さが、罪に対する判決を和らげてしまうという危機感がありました。もしイエス様が死刑と言えば民衆の心はイエス様から離れるし、死罪を否定するなら、律法の破壊者として告訴できます。

「罪を犯したことのない者が先ず・・」

返事をされないイエス様に、律法学者達はしつこく問い続けました。イエス様がついに口を開かれました。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。自分は同じ罪を犯していないから「裁く権利がある」と考えていた人々は、イエス様の一言で、年長者から順にこの場を去っていきました。自分の内面をみつめ、良心にやましさを感じて、その場にいたたまれなくなったのでしょう。
聖書には、「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(同:23)とあります。

「再び罪を犯すな」

エス様は、姦淫の罪を憎まれ、その戒めを破った人間の弱さに対しては嘆き悲しまれたことでしょう。しかし誰も彼女を罪に定めることが出来なかったことを聞き、罪のないイエス様でしたが「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。この言葉は、女性のこれから生きる道をまっすぐにし、悪から女性を守り、清めようとするものです。罪を犯した女性は、この言葉の前に、心からその罪を悔い改めたに違いありません。イエス様が来られたのは、裁くためではなく人々が救われるためでした(ヨハネ3:17)。神様は私達に今も呼び掛けておられます。


悔い改めて、お前達の全ての背きから立ち帰れ。罪がお前達をつまずかせないようにせよ。私は誰の死をも喜ばない。お前達は立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:30−)。