十字架もつまずき

 馬小屋から始まったイエスさまの一生は一貫して低い生き方を通されました。イエス様が弟子として選ばれた人達、すすんで関わりを持たれた人達は、地位や名誉のある自分を高くしている人達ではありませんでした。弱い人、人から軽蔑されている人、苦しんでいる人達が友でした。しかも最後は十字架という犯罪人がかかる死刑で殺されました。イエス様は常に低いところにご自分を置かれました。それが人々にとってはつまずきになりました。なぜなら人々は、身近な人、良く知っている人ではなく、高い所に自分を置いているような人を指導者として尊敬したいのです。イエス様の十字架は多くの人達にとってつまずきとなりました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです。」(Ⅰコリント1:22−)。十字架という死刑で殺された人をなぜ救い主として拝むのか、はユダヤ人だけでなく、日本においてもつまずきです。私達はそれを知りつつ、なお、イエス様は神の御子であることを告白し続けています。