3.聖霊と私達の関係

 イエス・キリストが言われたように聖霊がくだりました。使徒言行録にあるように、当時の全世界の人々が集まった所に、聖霊が降って教会が始まりました。聖霊と私達の関係とは、教会が建てられた(始まった)ということです。教会を通して、主イエス・キリストが語られるということです。主イエスが何をなさったか、どういうことを教えておられるかということは教会でしか語られません。勿論私達は個人で聖書を読んだり聖書の話を聞くことが出来ます。しかし、「主イエスの名のもとに2、3人集まり」(マタイ18:20)、そこでイエス・キリストがなさったこと、教えられたことをきちんと語られるのは教会です。自分で納得出来る聖書の読み方も大切ですが、牧師(神様によって聖書を証しする為に召された)を通して聖書の言葉を聞くということ、「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)のが教会です。

「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)。

「私達から神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」(Ⅰテサロニケ2:13)。

 教会によってキリストが語られる。語られる言葉を、私共が主イエスの言葉として受けとめ、主イエスの言葉として私共の中で力になる。それがまさに聖霊の働きです。主イエスが父なる神にお願いして、父なる神が主イエスの名によって主イエスのなさった事、教えられたことを証しする。そこに聖霊が降る。それが教会の最も中心的な営み、業(わざ)です。聖霊は、父なる神が主イエスの名によって、主イエスについて証しする時に、それを受け入れる時に働く力、神の力、それを私達は聖霊と理解することが出来るし、そのように教会で働く聖霊の力、それが私共にとって最も大事なことではないかと思います。そういうわけで、「説教」というのは、私共が主イエスの所に連れて行かれるか、主イエスが私共の所に来るところ、と宗教改革者ルターは言っております。大変わかりやすい言葉です。「説教」は、主イエスについて語られるわけですから、そこに聖霊が働いて、説教によって神の言葉が証しされることによって主イエスが私達の所に来られる、あるいは、私共が主イエスの所に導かれる、というふうにも理解出来ると思います。「主イエスを証ししない説教」は、聖霊は働きません。人間の言葉、人間の政治的な意見、人間の社会的な意見とかには「聖霊は働かない」 と言わざるを得ません。キリストを離れて聖霊は存在しません。主イエスとかかわらない聖霊は、聖霊とはいえません。霊の高ぶり、心をゆさぶられる、感動した、等ありますが、主イエスに関係しない心の高ぶり、感動というものは、感情の働きではあるけれども、聖霊の働きとはいえないでしょう。
 聖霊によって教会が始まったということ、そして聖霊によって私達は主イエスのところに導かれ、あるいは主イエスが私達に届けられる、ということから、聖霊というのは、教会を中心にして考えられます。
 最後に私達と聖霊の関係について、もう少し日常的な信仰生活のことについて考えてみたいと思います。