小説「クオ・ヴァディス」Quo Vadis Domine(シェンキェヴィチ著)

 私はこの春、神学校時代の仲間と共に小説「クオ・ヴァディス」の舞台ともなったアッピア街道に立ちました。この小説は紀元1世紀のローマを舞台に皇帝ネロの迫害下で信仰を守り通す初期キリスト教徒を描いたものです。小説では、迫害を避けてローマから逃げていくペテロが、アッピア街道を、自分とは逆にローマに向かって歩み来る人の姿を認めます。その箇所を少し読みます。
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次の日の明け方、カンパニア平原に向ってアッピア街道を進んでゆく二つの黒い人影があった。一人はナザリウス(少年)、もう一人は使徒のペテロで彼はローマとそこで苦しみを受けている同信の仲間を後にして行くのであった。(略)道は人通りがなかった。・・旅人たちがはいている木の靴が、山の方まで国道に敷き詰めてある石だたみを踏む度に、あたりは静けさを破ってこつこつとひびいた。やがて太陽が丘の狭間から上ったが、それと同時に
ふしぎな光景が使徒の目を射た。金色の環が空を上へ上へとはのぼらずに、丘を下って道をこちらへ進んでくるように彼には思われたのである。ペテロは立ち止まって言った。「あの明るいものが見えるかね。私達の方へ近づいてくるようだが」「何も見えません」ナザリウスは答えた。しかし使徒はすぐに片手で目をおおって言った。「誰かが日の光の中をこちらへ歩いてくる」しかし彼らの耳にはかすかな足音すら聞こえなかった。あたりはしんと静まり返っていた。ナザリウスに見えたのはただ,遠くでまるで誰かがゆすぶっているように木の葉がゆれ動いたことだけであった。(略)「ラビ(先生)、どうなされました」彼は心配そうに叫んだ。ペテロの手からは旅の杖が、はたと地に落ちた。目はじっと前を見つめている。口があいて、顔には驚きと喜びと恍惚の色が浮かんだ。突然彼は両手を前に広げてひざをついた。口からはしぼり出すような叫び声がもれた。「キリスト!キリスト!」彼は頭を地につけた。長い沈黙が続いた。やがてむせび泣きに途切れる老人の言葉が静寂を破ってひびいた。「クオ・ヴァディス・ドミネ?」(ラテン語。主よ、どこへ行かれるのですか?)その答えはナザリウスには聞こえなかったが、ペテロの耳は、悲哀を帯びた甘美な声がこう言ったのを聞いた。「おまえが私の民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」 使徒は身動きもせず、一語も発せずに、顔をほこりの中に埋めたまま地面にひれ伏していた。ナザリウスは、使徒が気絶したか、それとも死んだかと思ったほどであった。けれどもペテロはやがて起き上がって、ふるえる手で巡礼の杖を取り上げ、ひとことも言わずに七つの丘の都のほうへ向き直った。少年はこれを見ると、こだまのように使徒の言葉を繰り返した。「クオ・ヴァディス・ドミネ?……」「ローマへ」使徒は小声で答えた。そして引き返した。
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そしてペトロは捕らえられ殉教の死を遂げます。