2007-08-19から1日間の記事一覧
「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。」 私は、この言葉にこそキリスト教2000年の歴史を貫いて生き続けるキリスト者の生命の輝きを見るのです。そしてその輝きは2000年をはるかに越え、あの旧約の時代から約束された主の…
それは、ガラテヤの信徒への手紙 2:20にあります。 「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共に…
キリスト教はなぜこのような迫害と殉教の歴史をたどらねばならなかったのか。その歴史に耐え、信仰を捨てなかった私達の先達の中に生き生きと脈打っていた信仰の真実とはどのようなものであったのか。このことを考える時、思い起こさずにはいられない御言葉…
パウロも同じでした。キリスト教の歴史、それはこの初期キリスト教徒達の歩みを追うまでもなく迫害と殉教の歴史でした。ヨーロッパにおいても、そして日本においてもキリシタン迫害の歴史です。
私はこの春、神学校時代の仲間と共に小説「クオ・ヴァディス」の舞台ともなったアッピア街道に立ちました。この小説は紀元1世紀のローマを舞台に皇帝ネロの迫害下で信仰を守り通す初期キリスト教徒を描いたものです。小説では、迫害を避けてローマから逃げて…
いかなる迫害の下にあっても、たとえ殺されることがあっても、信仰に固く立ち続けなさい。なぜなら人間の命ははかなく、栄枯盛衰は繰り返されるが、主の御言葉は歴史を貫いて永遠(とこしえ)に 変わることがないから、とイザヤ書も詩編も語っています。 …………
このイザヤ書の言葉は、詩編103編と呼応しています。 「主は私達をどのように造るべきか知っておられた。私達がちりにすぎないことを 御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者も…
この元になっているのがイザヤ書40:6−8です。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが 私達の神の言葉はとこしえに立つ。」…
このような兄弟愛の実践は可能か?信仰を持つゆえに与えられた患難に満ちた迫害の中にあって、人は自分を守ることで精一杯であり、時として自分を守る為に他の人を犠牲にすらするのではないか・・? このような疑問に対してペトロの手紙の著者は、兄弟愛を可…
1章15節に「聖なる者となりなさい」とあります。聖なる者とは真理(神から賜った救い)を受け入れた者であり、魂が清められた者です。信仰のゆえの患難(かんなん)に満ちた状況であればこそ、聖なる者達が 偽りのない清い心で深く愛し合い、結びつくことが…
ペトロの手紙一は大きく三つに分けられます。�「救い」についての解説、�「救い」を望みつつ、この世の生活をどのように過ごすべきか � 勧告です。主題は、教会内部の結束と迫害に対する忍耐です。今朝私達に与えられた聖書は、キリスト教信仰の基となる「救…
22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれ…