「だが、裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、・・よかった。」

 イエス様は十字架の死の覚悟が出来ておられました。それが父なる神様の意志である以上、引き受けるのみでありました。しかしだからといって、裏切る者の罪は見逃されるわけではなく、神様の裁きを担わなくてはなりません。この時ユダが、自分のなした罪の告白と心からの悔い改めへと方向を変える決断をしたならば、必ずやイエス様から赦しの言葉を聞くことが出来たでしょう。しかし彼は引き返す最後のチャンスを捨てて、自分の選んだ道を突き進んでいきました。

 ユダに見るごとく、神様に敵対する力は今もなお猛威をふるって私達を襲ってきます。その力は恐るべきものです。神様が与えて下さった自由な意志(信じる自由・従う自由)を正しく行使出来るように、日々、御言葉と祈りをもって歩みたいと願うものです(エフェソ書6:10−18を心に刻みましょう)。