パウロの勧め

 パウロは勧めます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。これはすぐには読めない大変厳しい言葉です。生ぬるい私共の生活から比べると「いけにえとして献げる」とは大変な言葉です。「これこそあなた方のなすべき礼拝」というこの「礼拝」が、パウロが勧める「礼拝としてのクリスチャンの日常生活」と考えるとこれは受け入れ難い、そばに寄ることも出来ない言葉のように思います。しかしこの言葉と、冒頭の「神の憐れみによって勧める」との言葉は大変深く関係しています。もしも神の憐れみ(恵み)がなければ、私共にはこの言葉は受け入れられません。

 神が私達に求めておられることは、「生けるいけにえとして献げる」ことです。完全なクリスチャン生活に至る人々(たとえば宮城県には重要なキリシタンの迫害の地があり、戦後に至るまで洞窟で礼拝をささげた人達)の生活を念頭に置いて考えてみても「いけにえとして献げる」との言葉は私達には厳しい言葉です。ですが「神の憐れみ」がそれを私達に勧めています。