「私達はこのような宝を土の器に納めています」(7節)

 土の器とは、土のちりから造られたといわれるこの体です。宝とは「福音」あるいはすぐ前の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことです。土と宝とは全く対立するもので、相容れないものです。宝石をそのまま土に埋める人はいないでしょう。しかし神様は土に等しい私達人間を、宝石を入れる器として下さいました。この宝石は「神のものである、並はずれて偉大な力」(7節)即ち「私達は四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)力です。パウロは、自分は土のように弱いが、宝として与えられている神の力によって彼を襲う絶望と破滅から常に守られていると証言します。それは宣教者としての召命と伝道が、人間の力によらずに神様の力から出るものだからです。「私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(10節)。パウロが受ける死の危険は、イエス・キリストの苦難が、自分の体において継続したものであり、それはパウロがキリストと苦難を共にし、苦難の中にあってキリストとの交わりの中に置かれており、この苦難は克服と勝利を力強く約束しています。パウロという弱い土の器の中で、復活したキリストの命が現れているのです。