もう一つの法則

 使徒パウロは、ロマ書7章15節で「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです 」と言っています。これは「私が憎んでいることなのにやってしまった」ということです。私も時々、ある人の行為に対して嫌だなと思う時がありますが、いつのまにか自分も同じことをしている。そのことを思わされる時があります。使徒パウロは又、言います。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか 」。ここだけを読んで見ると、使徒パウロが何か悪い事をしているように思われますけれども、使徒パウロは熱心なユダヤ教の信徒でした。有名な律法の先生のもとで勉強し、律法を一生懸命に守ろうとしました。ですから律法に反するキリスト教の人達をつかまえて牢にいれて、自分が一生懸命に信じている信仰を守ろうとしたのです。ある面、本当に真実に、神様に喜ばれる者として一生懸命生きていこうとしていたのです。そのような使徒パウロがイエス様に出会って、このような告白をしている。なぜでしょうか。真実に生きていこうとすればするほど、真実とは違う自分の深い所の罪。愛そうとすればするほど、愛せない自分。他人を理解しようとすればするほど、理解できない自分。律法を一生懸命守ろうとすればするほど、挫折してしまう自分自身がいたのです。それで言うのです。律法では救いがない。律法では、いつもあなたの罪はこれで、これが間違っています、と自分を責めるばかり。しかし、私達の主イエス・キリストに感謝します。イエス・キリストが十字架で私の為に死んで下さった。それで私のこの罪を許して下さった。ただし無償で。義とされる恵みを与えて下さった。