私の努力ではなく、イエス・キリストを信じる信仰のみによって

 私は無力で、弱くて、いかに真実に生きていこうとしても出来ない。神様のことを深く理解して、神様の前で自分なりに欠けがないような信仰告白をして、洗礼を受けようと考える。しかしそれではいつまでも出来ないのです。私に「とにかく洗礼を受ければいいよ」と言った、半強制的な先生の導きは正しかった。ただイエス・キリストの、その御導きによってのみ、それに結ばれた私達は義とされる。本当の恵みの人生に生かされることが出来るのです。神学者ルターは、どうすれば私は神様に救われるのか。どうすれば神様に喜ばれる人生を送ることが出来るのかと考え、修道院に入り、様々な体験をしました。祈りをし、階段をひざで歩いて上まで昇り、下まで降りて、自分自身を痛み傷つけながら、肉の欲望をおさえながら、何とか「主による人生」になるようにもがいた。しかしルターが発見したのは、使徒パウロが言うように、私が一生懸命努力して神様に認められることはない。ただ、自分の罪の惨めさを知るだけ。私の為に十字架で死んで下さった、そのイエス・キリストの贖いによってのみ、それを信じる信仰によってのみ私は救われる。それをルターも発見したのです。使徒パウロは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです。」と語りました。私達は主イエス・キリストに結ばれて、主イエス・キリストを通してその神様の光のもとで自分自身を知ることが出来る。私がいかに空しく弱い存在であるか。又、その中で私の隣にいる相手がいかに弱いものであるか、いかに傷つきやすいものであるか。そのところで、私達はその人を赦し、愛することが出来るのです。そして私のような存在を受け入れて下さって、私の為に十字架で死んで下さったイエス様の恵みを知る時、<神様のかたちをとっている、神様に造られた>他人を愛することが出来るのです。