主にのみ、望みを置く

 詩編の作者は言います。「主にのみ、私は望みをおいていた」(40:2)。そうです。主にのみ私達には望みがあるのです。時々フィギュアスケートの選手やスポーツ選手達の試合前のインタビューで「勝つ自信がありますか」という質問に「私を信じて行きます。」という答えを聞きます。勿論、自分自身が一生懸命努力して、そのように信じようとする。人間的には気分がわかります。しかし本当に自分自身を信じることが出来るのでしょうか。使徒パウロさえ、私は望むことはしていない。自分が憎んでいることをいつのまにかしている、その惨めな自分自身、私自身を信じることが出来るのでしょうか。いくら私を愛してくれている両親であっても、妻であっても夫であっても、その人も神様の前では弱い存在である。その人に望みがあるのでしょうか。望みはありません。それを悟った詩編の作者は「主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」。つまり、私の祈りを聞いて下さるということです。それで「滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を、私達の神への賛美を授けて下さった。」(同3−4)のです。神様が、ただ私達の叫びだけを聞いて、それで終るならば望みはありません。しかし私を滅びの穴、泥沼から引き上げて下さり、私の足を岩の上に立たせて下さる、しっかりと歩ませて下さる。つまり姿は見えませんが、私の生きるこの現実に働いて下さる。生きておられ神として、私の歩む道に共におられ導き働いて下さる。それを私達は何によってわかるのでしょうか。