信仰

 信仰は律法主義に陥る時、力を失います。イエス様が地上にいらした時、ファリサイ派や律法学者とよく戦われました。律法には安息日の規定が細かく記されており、ファリサイ派や律法学者はいかに完全に規定を守るかを研究していました。それが神の国に入る条件だと考えていたからです。イエス様は、律法を表面だけ守っても、そこに心がなければ意味がないことを教えられました。律法主義は人の目を気にし、又、自分の行為を人に見せたがります。それに対してイエス様は、良いことをする時は、隠れてするように教えられました。なぜなら隠れたことを見ておられる神様が報いて下さるからであり、それをおおやけにするならば、すでにこの世で報いを受けてしまっているからです(マタイ6:1−)。


神様を信じ、イエス・キリストを信じることは、律法の束縛の中に入ることではありません。そうではなく逆に、あらゆる束縛から自由になるのです。神様が共にいてくださる時、私達は人間の本能や欲望にひきずられることなく、こうありたいと願う方向へと導かれます。たとえば「○○してはいけない」という律法で「しない」のではなく,「神様に喜ばれたい。悲しませたくない」から自ら「しない道」を選択するのです。