新約聖書における光

 光というものは、旧約聖書だけではなくて新約聖書においても大事な役割として表現されています。二つほど新約聖書から光について選び出したいと思います。まず、光というものは神である。私達の心に存在する神そのものである。という言い方が記されています。


わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネ一1:5)「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(コリント二4:6)と記されています。


神は光である。しかもその光は私達のうちに与えられている。神が私達と共にいる、ということが新約聖書のあちらこちらに記されています。神が光であり私達の歩むべき道を照らし出す。闇を照らし出す光であり、それが私達の内にあり、共に歩んでくれる、とするならば、もう一つの表現は、光が与えられている者は光にふさわしく歩むということも記されています。


あなたがたはすべて光の子。昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」(テサロニケ一5:5)。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(ヨハネの手紙一2:9-10)。


そのようなことがいたるところに記されております。光を見つめるだけではなくて、光に照らし出されるだけではなくて、光が私達の内に存在しているわけですから、光と共に、即ち、神と共に歩む、というのです。


新約聖書の、このような言葉を読んでおりますと、もう一つ、私達が親しんでいる聖書の言葉を思い起こすのです。それは山上の説教において、イエス・キリストが語った言葉です。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14-16)。


光を、世の中に輝き照らす存在になれ、なっている、ということを言っているわけですが、私共がある意味では、神と共にある、そして神の言葉をわが内に入れている、ということは、「神、共にいます」ということである。そして私達は光として歩む。そのような言葉が旧・新約聖書に記されているのを見る時に、光を灯す燭台とは何かということです。