私達へのメッセージ

 今日の聖書に登場したファリサイ派や律法学者達と、現代の私達が陥りやすい共通点は何でしょうか? それは「信仰の形骸化」、形式主義です。日曜日の礼拝を例として考えてみましょう。


 日曜日に教会に集い、礼拝を捧げる本来の目的は、創造主であり、私達に命を与え、生かして下さっている神様を賛美し、御名をほめたたえることです。一週間の歩みが守られたことを感謝し、ざんげの祈りをささげることでイエス様の贖いによって罪を赦していただいたことを確認し、更に御言葉によって神様につながっている喜び、仕える喜びを与えられ、さらには兄弟姉妹たちと共に一つにされて、真理と霊によって神様を礼拝することが許されているという喜びを実感することです。


 神様を求める者にとっては、礼拝が神様との出会いの場でもあります。御言葉を通して今も生きて働いておられる神様から力をいただき、神様を知らない人々に、広く伝えていく励ましを与えられる時でもあります。


 もし、形式主義に陥り「日曜日に教会(礼拝)に、行きさえすればそれで良し」と満足してしまうならば、そこには礼拝する目的が見失われ、喜びも感謝もないまま礼拝行為が形式化され、形式的な礼拝が続く時に、ファリサイ派や律法学者のように、神様の御心から遠く離れて、神様中心ではなく、勝手な理屈を並べて人間中心に、罪へと陥っていくのです。心から喜びと感謝をもって礼拝に集う為に、日々の生活を始める前に、まず神様の御声(聖書)を聴き、祈る時間と空間を持ち、又、神様を知らなかった過去の自分を思い起こし、今の自分を感謝したいと思います。