「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う(6節)

「恵みと慈しみ」とは、キリストご自身のことです。キリストご自身が恵みと慈しみを垂れているのです。「私を追う」とは執拗に付け回すことです。恵みと慈しみであるキリストは私共のそばにいる。私共を追っている。これは聖餐に劣らない神の恵みであり、キリストがそばにいるという力強い詩人の言葉です。キリストがいつも私共のそばにいる。・・どうしてそれを理解できるでしょうか。礼拝です。聖書を通して語られる説教によって思い起こすのです。このことを津波のさなかに思い起こすのは、恐怖にさらされているのでむつかしいでしょう。しかし礼拝において繰り返しこの言葉を聴き、私共を追って下さるキリストに出会うことです。出会うということは、私共がそこに行かなければ、(追って下さるキリストに目を向けて、胸を開かなければ、)そこにいらっしゃるということがわからないのです。

ヘブライ書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:15、16)とあります。

説教と聖餐が行われる礼拝に出席する。それ以外に恵みの座に近づくことは出来ません。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」ということに連なっているわけです。羊飼いが羊を青草の原に連れて行かれるということは、恵みの座、すなわち憩いの場である礼拝に出席することであり、礼拝の場に集うことです。礼拝によって与えられるものが「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」のです。