2011-05-08から1日間の記事一覧

「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(6節)

「主の家」とは礼拝のことです。どのような建物や場所であろうとも、そこで礼拝がなされるところが主の家であり、私達の帰るところです。この23篇を読むことによって、私達はキリストが近くにおられることをもう一度思い起こすことが出来るのではないでしょ…

「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う(6節)

「恵みと慈しみ」とは、キリストご自身のことです。キリストご自身が恵みと慈しみを垂れているのです。「私を追う」とは執拗に付け回すことです。恵みと慈しみであるキリストは私共のそばにいる。私共を追っている。これは聖餐に劣らない神の恵みであり、キ…

「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる(5節)。 

これは、私達にキリストの最後の晩餐を思い起こさせます。キリストは十字架にかかる前の晩、パンと杯を下さった時、「これは私の体である。これはあなた方の為に流す私の血、契約の血である。」と言われました。「香油を注ぎ」は祝福です。パンとブドウ酒を…

「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭(むち)、あなたの杖 それがわたしを力づける。(4節)

これは具体的にはどういうことを背景にしているのでしょうか。「ダビデの詩」(1節)とありますから、ダビデに寄せて作られた詩と考えて見ると、ダビデ王が直面した苦しみ、災い、死の陰の谷を考えて良いかもしれません。ダビデ王は王の中の王と言われながら…

「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(3節)

それは、「青草・・」と「死の陰の谷・・」の間にある「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」という言葉です。私達はこの意味を考えなければなりません。「正しい道に導かれる」を、キリスト者として最後に大事なことがあると語ったフィリピ書…

「主(キリスト)は、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(2節)

死の陰の谷、死の危険もある。それにもかかわらず「何も欠けることがない」と満足している理由は、「キリストは、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」からです。これは、 羊と羊飼いとの典型的な姿でしょう。この…

「主はわたしの牧者(口語訳)「私には何も欠けることがない。」(1節)

聖書はしばしば「私とキリストとの関係」を「羊飼いと羊」に譬えて記しています。たとえば「わたしは良い羊飼いである。(ヨハネ福音書10:11)や、99匹の羊を残して迷える羊を探す羊飼いの話(マタイ福音書18:12−)があります。しかし中でもこの23編が良く…

はじめに

3月11日に起きた地震、津波、そしてその結果である放射能汚染、そういった事柄を私共はどういうふうに聖書の御言葉によって理解するか、どう受け止めるか、そういうことが私達に課せられていると思います。これらの出来事を理解し受け入れるということについ…

4章5-8節

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の…

23章1-6節

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れ…